可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社(2006)を読了しての備忘録
J.D. Salinger, 1951, "The Catcher in the Rye"
村上春樹

ホールデン・コールフィールドが、ペンシルヴェニア州エイジャーズタウンにあるペンシー・プレップスクールを3年生で退学処分になった、去年のクリスマス前の出来事を打ち明ける。
土曜日。ペンシーの全校生徒がサクソン・ホール校とのフットボール試合に熱狂する中、ホールデンは一人トムセン・ヒルの頂から競技場を見下ろした。朝、フェンシング・チームでニューヨークのマクバーニー校との交流試合に向かう途中、マネージャーを務めていたホールデンが用具一式を地下鉄に置き忘れたために、試合ができず学校に予定外に早く戻ってしまったのだ。ホールデンは、歴史のスペンサー先生の家に別れの挨拶を済ませに行くが、居たたまれずにすぐに辞去する。ホールデンが寮の自室に帰ると、隣室の4年生ロバート・アックリーがやって来て部屋を嗅ぎ回り、あれこれ詮索する。そこへルームメイトの色男ウォード・ストラドレイターが戻ってくる。今夜のデートに着ていく上着の借用と月曜提出の作文の代作とをホールデンに頼む。セックスしか頭にないストラドレイターのデートの相手が、自分の馴染みのジェーン・ギャラガーだと知ったホールデンは気が気でない。晩くに戻ったストラドレイターから代作しておいた作文が注文通りではないと詰られ、ジェーンを車に連れ込んだと聞いたホールデンは激昂し、ストラドレイターをしつこく嘲ったことから、思い切り殴られる羽目になった。本来、水曜日に退去する予定だったが、今すぐニューヨークに安宿をとって数日の骨休めをすることをホールデンは決意する。

ホールデンの繊細な感覚は、愛情や優しさと自暴自棄とを綯い交ぜにしてしまう。その混沌とした状態をそのままに、恰もラジオの人気パーソナリティがリスナーに語りかけるような軽妙な語り口によって、次々と打ち明けていく。琴線に触れる内容と、秘密を共有する感覚とが相俟って、読者がホールデンとの間に極めて強い親近感を生み出すのだろう。

未だペンシー・プレップスクールを退学になったこと知られていない段階で両親と顔を合わせることを避けたかったホールデンはこっそりと自宅に戻る。ホールデンは愛する妹のフィービーが寝ているのを起こして話し込む。ホールデンが妹を愛さずにいられないのは、例えばフィービーの兄に対する次のような対応から分かる。

 それから僕はレコードの話をした。「あのさ、君のためにレコードを1枚買ってきたんだ。でも途中で落っことして粉々になっちまった」。そしてコートのポケットからレコードのかけらを出して見せた。「わりに酔っぱらってたもんだからさ」
「そのかけらをちょうだい」とフィービーは言った。「しまっておくから」。彼女は僕の手の中にあるかけらをとって、ナイトテーブルの引き出しに入れた。そういうのって参っちゃうよね。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.276)

粉々になったレコードは退学になったホールデンのメタファーである。そんな傷ついた兄を妹が受け容れることを表現している。

因みに、散財して手持ちのないホールデンがフィービーからお金を借りる場面も印象深い。

「クリスマス用のお金くらいならあるけど。プレゼントを買ったりするためのお金。お買い物なんてまだぜんぜんしてないの」
「そうか。」いくらなんでも妹のクリスマス用のお金を使うわけにはいかないよね。
「少し持って行く?」
「君のクリスマス用のお金を持っていくわけにはいかないよ」
「少しなら貸してあげられるよ」。それから彼女がDB〔引用者註:今はハリウッドで脚本の仕事をしている、2人の兄。DB不在時、フィービーはDBの広い部屋を寝室に使っている〕の机のところに行って、百万個くらいの引き出しを開けて、中をごそごそと探る音が聞こえた。なにしろ部屋の中は一寸先も見えないくらい真っ暗なわけだよ。「でもさ。どっかに行っちゃったら、わたしの出るお芝居が見れないじゃない」とフィービーは言った。そう言ったときの彼女の声は変な漢字だった。
「ちゃんと見に行くよ。どっかに行くのはそのあとにするからさ。君の出るお芝居を見逃すわけにはいかないもの」と僕は言った。「僕はたぶん火曜日の夜まで、ミスタ・アントリーニのところにいさせてもらうことになる。それからうちに帰ってくる。それまでにも、なんとかチャンスをみつけて君に電話をかけるよ」
「はい、これ」とフィービーは言った。彼女は僕にそのお金を渡そうとしていた。でも僕の手がみつからなかった。
「ねえ、どこにあるの?」
彼女は僕の手にお金を渡した。
「なあ、そんなにいらないんだよ」と僕は言った。「2ドルもあればじゅうぶんなんだ。ほんとに、噓じゃなくってさ。ほら、これ」、そう言ってお金を返そうとした。でもフィービーは受け取らなかった。
「全部持っていきなさいよ。余ったら返してくれればいいんだから。お芝居のときに持ってきてね」
「いくらあるんだい、ところで」
「8ドルと85セント。いや、ちょっと待って、65セントね。ちょっと使っちゃったから」
 それから出し抜けに僕は泣き出してしまった。それを押しとどめることができなかった。誰にも聞こえないように声を殺して泣いたんだけど、でも泣いたことに違いはない。僕が泣き出すと、フィービーはすっかり怯えてしまった。彼女は僕のそばに来て、泣くのをやめさせようとした。でも、一度泣き出しちゃうと、そんなにぱっと泣きやめないものなんだよ。僕はベッドの端っこに腰掛けたまま泣いていた。フィービーは僕の首に腕をまわし、僕も彼女に腕をまわした。それでもまだ長いあいだ泣きやむことができなかった。そのまま息が詰まって死んじゃうんじゃないかという気がした。。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.303-304)

退学になったことを知ったフィービーから、ホールデンは世の中の全てが気に入らないのだと詰られる。

「好きなこと、ひとつだって思いつけないじゃない」
「思いつけるよ。もちろん思いつけるさ」
「じゃああげてみてよ」
「僕はアリーが好きだ」と僕は言った。「それから今やっているようなことをやるのが好きだ。君といっしょに腰を下ろして、おしゃべりするんだ。いろんなことについて考えて、それで――」
「アリーは死んでるんだよ。自分でもいつもそう言ってるじゃない! もし誰かが死んでしまって、天国にいるとしたら、それはもうじっさいには――」
「死んでるってことはわかってるよ! 僕がそのことを知らないとでも思っているのか? それでもまだ僕はあいつのことが好きなんだ。それがいけないかい? 誰かが死んじまったからって、それだけでそいつのことが好きであることをやめなくちゃいけないのかい? とくに、死んじゃった誰かが、今生きているほかの連中より千倍くらいいいやつだったというような場合にはさ」
 フィービーは何も言わなかった。言うべきことを思いつけなかったとき、彼女はまったく何も言わないんだ。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.290)

ホールデンの弟でありフィービーの兄であるアリーは白血病で亡くなっていた。ホールデンはアリーに対して強い愛情を抱いている。

 天気がいいときには、両親はしょっちょうアリーのお墓に行って、花束を置いてくる。僕も二度ばかり一緒に行ったことがあるけど、あとは行かなくなった。だいたいさ、アリーがそんなとち狂った墓地に入れられているのを見ることに、僕はなにしろ我慢ができないんだ。まわりは死んだ連中と墓石ばかりだ。太陽が出ているときはそんなに悪くもないんだけどさ、僕がそこに行ったときには2回とも――2回ともだぜ――雨が降り出したんだ。それには参ったよ。アリーの噓くさい墓石にも雨が降っていたし、彼のおなかの上に生えている草にも雨が降っていた。そこいらじゅう全部に雨が降っていた。墓参りに来てた人たちはみんなあわてて自分の車の方に走っていった。そういうのってないだろうと、僕はつくづく思うんだよ。墓参りに来ている連中はみんな車の中におさまって、ラジオかなんかつけて、それからどっか洒落た店に行って夕食を食べるわけさ。アリー以外のみんなはってことだよ。僕にはそういうのがとことん納得できないんだ。もちろん墓地にあるのは彼の身体だけで、その魂は天国だかどっかに行っちまっているというような御託は、頭ではわかっているさ。でもさ、それでもやっぱり僕には耐えられないんだな。アリーはそんなところにいるべきじゃないと思うんだ。君はアリーのことを知らないわけだけど、もし知っていたら、僕の言いたいことはきっとわかってくれるはずだ。たしかに太陽が出ているときはそんなに悪くないよ。でもさ、太陽なんて自分が出てきたいときにしか出てこないんだ。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.262-263)

ホールデンは、アリーの野球用のミットをペンシー・プレップスクールの寮に持って行っていた。そのミットには、守備について暇なときに読めるようにと、アリーが緑のインクで至る所に詩を書き付けていた。

 とにかく僕はそのアリーの野球ミットのことを、ストラドレイターの作文として書いたわけだ。僕はたまたまそのミットを手もとに持っていた。スーツケースの中に入れてあったんだ。だからミットを出してきて、そこに書かれた詩をそのまま書き写した。僕がやったことといえば、アリーの名前を変えて、それが僕の弟であってストラドレイターの弟じゃないってことがばれないようにしただけだ。あんまり気は進まなかったんだけど、でも僕としては描写的に書けそうなものってほかにひとつも思いつけなかった。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.69-70)

アリーのミットは「たまたま」ではなく、「わざわざ」寮に持ち込んだものだ。ペンシーを去るに当たって書いた作文に、ルームメイトのストラドレイタ―のために代作した作文に、わざわざ大切な弟の遺品について書いたのは、そこにアリーの力を借りて自分の存在を刻みつけたいという意志が(無意識にせよ)働いたために違いない。

ところで、ホールデンがストラドレイタ―に対して抑えがたい怒りを覚えたのは、自分が愛するジェーン・ギャラガーを彼が車に連れ込んで行為に及んだ(と思った)からだ。ジェーンが特別な存在であることもまた、アリーのミットから分かる。

 (略)家族をべつにすれば、ジェーンは僕がアリーの野球ミットを見せただた一人の相手だった。詩をいっぱい書き付けた例のミットをさ。(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ〔ペーパーバック・エディション〕』白水社/2006年/p.133)

ホールデンと妹フィービー、そして亡くなった弟アリーとの関係が主軸をなす。因みに『フラニーとズーイ』では、兄(ズーイ)と妹(フラニー)の関係をより特化して描いている。