可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『さいたま国際芸術祭2020』

展覧会『さいたま国際芸術祭2020』を鑑賞しての備忘録
大宮区役所(メインサイト)と旧大宮図書館(アネックスサイト)を主会場に、2020年10月17日~11月15日。

 

ディレクターを務めるのが映画監督(遠山昇司)だからなのか、主会場が「旧」区役所や「旧」図書館であるためか、時間を意識させる展覧会であった。
かつて何かのために使用されていた建物を転用した会場は、その場所の持つ力が強く、作品が呑み込まれてしまうような印象を受けることがある。場所に対峙しつつそれを凌駕する作品を作るか、その場に溶け込ませてしまうか、あるいはホワイトキューブにして場所の固有性を断ち切ってしまうか。作家は頭を悩ませることになるだろう。
会場の導線がよく考えられていた。とりわけアネックスサイトの順路の表示は分かりやすく辿りやすかった。

 

カニエ・ナハの《あいすません》(アネックスサイト2階[02])は、かつて図書館として用いられていた建物の、あらゆるものが取り去られてしまった空間で、来場者に図書館の痕跡やその場の歴史や固有性に思いを馳せるように仕向ける。壁面には美術作品を展示する際に添えられるようなキャプションが設置されており、来場者は、鑑賞の手引きとなるプリントを手に「作品」を巡っていくことになる。曰く「かつては本がひしめいていた、いまはただ一冊の本も無いこの部屋には、いまは無数の『無題』が有る」。壁の汚れに図書館という場が生み出したドローイングや版画を見る。ここでは、赤瀨川原平の「植物ワイパー」のように、芸術作品の主体という軛から解放されている。そして、床に撒いた落ち葉に「光と影を印画する、原初の写真」を見る。もっとも、本作品のキャプションと解説だけで織りなされる性格からすれば、落ち葉を設置する必要は無かったのではないか。ジョゼフ・ニエプスによる世界初とされる写真が窓からの眺めであったことからしても、窓外の樹木へ視線を誘うことで足りたはずだ。作者は「彫刻」と題して、窓外に望む流水のようなビルの壁面デザインに、海岸の集落があったであろう氷川神社一帯の原始の姿を幻視させる。窓外の参道を舞台に演じられるのは、「台本は無く、リアルな演技と所作」のみから成る一幕劇である。意味を問う前に生は演じられているのだ。階段に吊された電球がガラス窓に反射して複数立ち現れる姿に目を向けるよう作者によって仕向けられる。こんなにも豊かに世界は存在している。多元的現実への気付きを促される。意(い)外かもしれないが、鑑賞者以(い)外に作品を作品たらしめることはない。「い」は常に外にある。ろはにほへと。始めはどこかにあって、何事につけ中途からしか参入できない。

篠田太郎の《ニセンニジュウネン》(メインサイト1階[14])は、天井から少量の砂を落としていくインスタレーション。音も無く落ちていく砂粒の姿はほとんど目に映らないものの、床に山となった姿が鑑賞者に迫る。残された社会保障関係部局の標識は、超高齢社会の課題の山積や社会保障関係費の増大へと否応なく意識を向けさせる。絶えず落ち続ける砂は砂時計のようでもあり、食い止めることのできない時間の表象でもある。12個の排出口による12個の砂山。12という数字は、十二支のこことであろうか。十二支のいずれかに該当するのは結局全ての人であり、誰もが年を重ねる点においては等しいことを示すのかもしれない。

クラウス・ダオヴェン(メインサイト2階[10])は、ワイヤーブラシや高圧洗浄機を使用して建造物などの表面から汚れを除去することで描画する作家だという。来日がかなわなくなり、会場に制作した作品が見られなかったのは非常に残念(布に植物を描き出した作品と、過去作品の映像が紹介されている)。

碓井ゆい(メインサイト2階[08])は、テントのような授乳室を設置。部屋の天井の一部が崩落し、落下した建材やチューブがソフトスカルプチャーで再現されて床に散らされている。テントの仮設性がその場しのぎの育児環境を、残骸のスカルプチャーは育児環境に迫る危機を表すものか。誰もいない状況では、子供の存在しないデストピアの表象とも受け取れる。

最果タヒは大門地下道の路面に詩を記している。折れ曲がり段差のある通路に5行にわたって記された詩は、一覧できないため、行きつ戻りつ文字を辿らざるを得ない。表現に対する屈折、逡巡や戸惑いを感じるとともに、かえってその表現を理解したいという衝動にも駆られる。大宮南銀座の路上には、春を歌う一直線の詩が記されている。