可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 石場文子個展『不在(ない)と存在(ある)』

展覧会『3331 GALLERY #042 3331 ART FAIR recommended artists 石場文子個展「不在(ない)と存在(ある)」』を鑑賞しての備忘録
3331 GALLERYにて、2021年9月17日~10月17日。

写真作品の「白のある風景」(13点)、「《 》」(3点)、「Hole」(3点)、「浮かんで見える大きな岩」(2点)の各連作シリーズを中心に、額縁などを用いたミクストメディア作品4点、映像作品1点を合わせ、16件27点で構成される、石場文子の個展。

《《 》(展示室)》(600mm×700mm)は、白い壁に金色の額縁だけを架けて撮影した写真作品。絵画などの作品は額に入れられていない(=不在)。壁が額縁に切り取られることで作品となり(=存在)、あるいは、画集やカタログなどでは「存在しない」扱いの額縁そのものが作品と化す(=存在)。
《Hole #3(ストライプ)》(727mm×606mm)は灰色の波板の上に、中心に正円の穴を空けた白い紙を置いて撮影した作品。穴の部分は紙が存在しないが、円という形が存在する。また、その円を図として捉えると、今度は紙が地となってイメージではなくなる。ところが、紙は波板の上に置かれているので、中央に穴の空いた長方形として存在する。そのとき、波板は長方形の地となるが、波板はまたストライプの図を表している。さらに、ストライプは影(明暗)によって生じているのであり、実体は存在しない。
「pattern」シリーズ(378mm×288mm)は、遠目には、黒い額縁の中に白地に黒い図形(それぞれ正円、正三角形、正方形)が表されている作品群であるが、それぞれ図形の表し方を異にしている。《pattern_●(J)》には半透明の白い紙(?)の上に黒い円が載せられていて、円の影が白い紙の裏に映り込んでいる。《pattern_▲(O)》には、白い紙に切り抜かれた三角形の奥に、さらに2つの三角形が覗く。《pattern_■(S)》には、ガラスに描かれた黒い正方形の影が背後の白い紙に映り、別の正方形を生み出している。それぞれのタイトルに"J"、"O"、"S"という文字が付されている理由は分からなかった。「□△○」の順にすると仙厓義梵も召喚できそうだ。
《白のある風景 1(中)》(288mm×378mm)は、閉じた(おそらく白い)ヴァーティカル・ブラインドを撮影した写真をモノクロで白色のコピー用紙に出力し、同じイメージを黄緑色のコピー用紙に印刷したものを真ん中あたりを破り取って重ねたもの。白いブラインドは、窓外の闇を吸って暗くなっているがために、わずかにトナーが載る。それはトナーが載らない周囲の縁の縁と比べるとき明らかだ。そして、ブラインドの隙間はトナーが厚く載って真っ黒になっている。ここでは、現に存在する縁にトナーが載らず、イメージの中に存在するブラインドに薄くしかトナーが載らないのに対して、その場はおろかイメージの中にも存在しない空隙に最もトナーが載っている。「不在」にこそトナーが「存在」している。また、黄緑色のコピー用紙が引き裂かれることでイメージが消失した部分(=不在)に、白色のコピー用紙のイメージが現れ(=存在)、黄緑色のコピー用紙の破られなかった部分のイメージ(=存在)が、下にある白色のコピー用紙のイメージを不可視(=不在)にしている。
「白のある風景(小)」シリーズ(254mm×203mm)の1点では、白い壁際に茂る草を撮影した写真をピンクのコピー用紙に印刷し、おそらく同じイメージを白い紙に印刷したものの上に貼り付けている。そのピンクの紙の右上に白い正円を切り抜くことで、恰も満月のようなイメージが現れる。
「白のある風景」シリーズでは、日常の何気ない光景を撮影した写真に僅かに手を加えることで、見ることについて鑑賞者に再考を促している。何気ない光景とは、事物の自然の流れにある、言わば正常な状態であり、気に留められることがないために存在しないものになってしまっている。気にも留めない光景を気になる光景へと変貌させるため、作家は様々なちょっとした細工を施し、自然の流れを敢えて断ち切って見せるのだ。その仕掛けが、鑑賞者に認識していなかった機能の発見を促す。その意味では、ポール・ヴァレリーが主張するところの詩に当たる作品と言えよう。

 (略)装置としての詩〔引用者註:ヴァレリーにとっての詩=作品とは、恣意的とならざるを得ない描写(≒散文)がもたらす想像的生に没入する(≒身体を失う)ことのないように、読者を行為させ、身体的諸機能を開拓する装置である〕は、その様々な仕掛けによって読者を拘束しつつ、ひとつの擬似的な「世界」と相対しているかのような感じをあたえ、より完全な「行為」に向かわせる。つまり事物の自然で「散文的」な流れにさからって、みずからの諸機能を組み合わさせるのである。それは読者にとっては困難を伴うだろう。しかしまさにそのことが読者に自身の機能を「開拓」させ、あらたな連繋の可能性を教え、みずからの身体の「解剖」を、ひとつの生理学を実践させるのである。
 さらにヴァレリーはそれが機能を発見=所有させるのであれば、文字どおりの詩、つまり言語によるそれでなくても「詩」と呼んだ。たとえば「マッチ」を擦って火がつく」のは詩ではないが、「マッチを擦って火がつかない」のはひとつの詩になる、とヴァレリーは言う。「それはひとつの――詩になる。不-成功は強く感じられるものになる。だが成功したもの、予想され――実現したものは、存在しないものになっていただろう」。一般に、「生の機能作用の大部分が成功し、沈黙している」。もちろん、「正常と健康は、道具的な特性」であって、この成功による沈黙が身体の道具化であることは、言うまでもない。言語によるそれにせよ、それ以外のものにせよ、詩があらわれるのは、「事物の自然な流れ」が断ち切られるところである。そしてこの断ち切りによってのみ、「私たちが持つ潜在的なものの総体」としての錯綜体への接近は可能になる。「成功していたら行為のなかで存在しないままにされていたであろうさまざまな錯綜体を燃え上がらせる」のは「抵抗」「失敗」「我慢できなさ」といったものなのである。(伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2021年/p.263-264)

出展リストも複数の色のコピー用紙を用いることで、作家の「白のある風景」に対する注目を促している。