可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小原若菜・浦山輝子二人展『窓から覗いてみた世界』

展覧会『小原若菜×浦山輝子「窓から覗いてみた世界」』を鑑賞しての備忘録
Oギャラリーにて、2021年1月18日~24日。

小原若菜(リトグラフ)と浦山輝子(アクアチント、エッチング)の版画展。

小原若菜の作品について
"momery(memories)"をタイトルに含んだ作品が3点ある。
《A room for observing memory》。赤いタイルが床と壁とに敷き詰められた狭い空間に、シャワーヘッドのような形態を持つ顔のようなオブジェが一対、床から生えて、向かい合っている。床の中央には穴が開いていて、そこには餌皿のようなものが置かれている。その周りには黒い手らしきものが床から伸びている。正面奥の壁には窓のようなものが穿たれていて、その奥には門のようなものが見える。
《Place of memories》。板の張られた床に黒斑の白い牛が左向きに佇んでいる。その両脇には片手で牛を触れる、裸の人物が背を向けて立っている。画面の上部はくすんだ水色で、中央奥の窓のような四角い部分には樹影らしきものがいくつか見える。
Converse with memory》。前景には二人の人物の頭部が向き合って描かれている。中景には、オオカミのような動物が地面に穿たれた穴から姿を現し、その脇には人の手が生えている。後景には山なのか道なのか三角形が表された窓のようなものがあり、その手前を飛行機が飛んでいる。
《A room for observing memory》と《Place of memories》は場所による記憶術を連想させる。すると、《Converse with memory》は物語を利用した記憶術であろうか。
また、これら3作品は全て手のモティーフが含まれている。イメージによる陳述記憶とともに、手続き記憶(非陳述記憶)を表すのだろうか。
ところで、新型コロナウィルス感染症が、触れることを禁忌にしている。もともと視覚に偏重した社会は、結果として、その程度を極端にまで推し進めることとなった。画面に表された手は、社会から失われる触覚を希求するものであろうか。触れることができないのなら、見ることしか叶わないのなら、見ることの中に、触覚を導入する他は無い。彫刻を鑑賞する際の眼差しが、手がかりとなろう。

 触覚の力を説明するにあたって、ヘルダーは読者にひとつの思考実験をしてみるように促します。想定されているのは、彫刻家が彫像を作ろうとしている場面。ただし、この思考実験は、手の感覚を通して想像することが条件になっています。なぜなら、それこそが彫刻家のやり方だからです。ヘルダーは言います。「われわれは、ある形、ある肢体がすぐれた意味を示すべき場合にはいつでも、それが当然他者にたいしても何ほどか現われ出ることを見いだす。それはいわば、自分自身を呈示し、それもまず第一に、特に、さわる手に呈示する」(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、262頁)。以下がその内容です。


 アポロが怒りをおぼえて、あゆみ出したとしてみたまえ。たちまち、彼の身体のさまざまな部分がむくむくとあらわれ出て、自己の目的に向かうあゆみと高貴な自負心とを暗示する。鼻は荒々しい息づかいをして、あたりを払うばかり。胸は、美しい鎧さながら、堂々ともりあがり、ひどく長い太腿が勇ましく踏み出す。ほかの肢体は、いわばつつましげに引きこもるが、これらの部分は行動の主役ではないからだ。ある姿が、口を開いて、求め、乞い、願い、嘆願するとする。するとその口は、思わず知らずおとなしく前に突き出され、口もとに、息吹き、祈り、欲求、願望、接吻の気配がただよう。耳が聞いているときは、この、彼の暗示的動作が耳にまでおよぶ。(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、263頁)

 

 身体諸部分の調和的な関係、というだけなら芸術論としてそれほど珍しいものではありません。ヘルダーに大きな影響を与えたディドロも、絵画について同じようなことを語っています。ヘルダーの面白いのは、やはりそれを視覚ではなく触覚と結びつけたところ。ヘルダーは、さわる手に対しては対象がみずから語り出す、と言います。「行動する肢体のかたちはつねに語っている、『おれはここにいるぞ。おれは活動しているんだぞ』と」(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、263頁)。
 「おれは活動しているんだぞ」と語る体。ここで重要なのは、さわる手に対しては(1)対象がみずから語り出すということ、そしてこの語りにおいて、(2)動きのレベルで対象がとらえられていることです。
 (1)は、先に確認した「触覚はさわり方しだい」という触覚の特徴に通ずる点です。どのようにさわるかによって、対象は異なる性質を見せる。こちらのさわるというアクションに応答するかのように、対象が、それまで見えていなかった性質について語り出す。ヘルダーは、さわり方の違いについては論じていませんが、さわる手の動きと対象の語りの相関については「内面的共感」という言葉で語っています。「内面的巨漢、すなわち、人間的自我のいっさいを姿のなかへすみずみまでさわりながら移していく触覚、これのみが美の教師であり、美を生み出す方法なのである」。(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、262頁)。
 (2)については、先の思考実験のくだりで、必ずしも文字通りの運動ではなく、何かをしようとする衝動や感情の気配、あるいは数学でいうベクトルのようなものが想定されていたことが興味深い点です。「勢い」のようなもの、まだ具体的な四肢の運動や表情としては現れてはいないけれど、そこにつながる予感の部分までをもとらえるのが手だと、ヘルダーは言うのです。
 この(1)(2)の二つをまとめて、ヘルダーは「生命」あるいは「魂」という言い方をします。外から見たときに目が奪われるプロポーションや色ではなく、内部にあるもの、奥にある「たえず動かしてやまない流れ」を手はとらえるのです。「彫刻は内へ内へとはいりこんで仕事をする。存在し永続せよとばかり、生命をおび、魂にあふれた仕事である」(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、218頁)。ヘルダーはさらに続けます。


 人はただ、存在し、感知しさえすればいいのである。ひたすら人間であることだ、どのような性格、どのような姿勢や情念にもひそむ魂が、われわれ自身の内部に働いていることを、目を用いずに感得し、それから手でさわってみることだ、これこそ、声高に語る自然のことばであり、あらゆる国民、そればかりか、目が見えない人にも耳の聞こえない人にも聞きとれることばなのだ。(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、218頁(一部、訳を改変))

 

 自然が作り出したものの内部にある、生命や魂のたえず動いてやまない流れ。この「自然のことば」を聞くことが触覚の役割であり、それを形にするのが彫刻という表現であるとヘルダーは言います。視覚は表面にしか止まることができないのに対し、触覚はさらにその奥に行くことができる。触覚は「距離ゼロ」どころか「距離マイナス」なのです。生き物の身体は、視覚にとっては見通せない不透明なものですが、内部の流れを感じることのできる触覚にとっては、むしろ透明なのです。
 もちろん、彫刻の鑑賞は通常は視覚によって行われ、像にさわることは特別な機会でない限り禁止されています。ヘルダーもそのことを前提に議論を進めています。曰く、彫刻愛好家は低く腰をかがめて像のまわりをうろつき、「視覚を触覚と化す」つまり「あたかも暗がりのなかで手さぐりをするかのように見」ようとする、と(ヘルダー(登張正實訳)「彫塑」『世界の名著38』(登張正實責任編集)中央公論社、1979年、214頁)。さわることは叶いませんが、視覚を触覚のように用いつつ、彫刻家が手を通してとらえようとしたものを、つかもうとする。あくまで根本に触覚があることは変わりません。(伊藤亜紗『手の倫理』講談社〔選書メチエ〕/2020年/p.72-75)

《A room for observing memory》、《Place of memories》、《Converse with memory》に共通するのは手のモティーフだけではない。その奥に「窓」らしきものが描かれていることも3作品に見られる。「視覚は表面にしか止まることができないのに対し、触覚はさらにその奥に行くことができる」のだと、手のモティーフによって「視覚を触覚のように用い」、「内部の流れを感じること」を求めるかのようだ。そして、「内部の流れ」とは、時間であり、記憶なのだろう。

《A room for observing memory》や《Converse with memory》に見られる対面のモティーフは、記憶すなわち過去と向き合うことを表すのだろうか。イヌと人とが向き合う《Stream of consciousness》、人とヘビ(?)が向き合うような《Confluence》、彫像のようなものが向き合う《What i am starting at》や(横長の)《Summy》においても対面のモティーフが見られる。

縦長の画面の《Summy》。上半分には、赤いタイルを敷き詰めたような、赤の面に白い格子が走り、その右側に女性の横顔が浮かぶ。ヘルメットような髪(濃いモスグリーン)と、目の部分を覆う仮面のような顔(淡いモスグリーン)、そして裂けたような口が赤で表される。横向きの構図で目が大きく表されていることもあって、エジプトの壁画を思わせないこともない。画面下半分には、濃いモスグリーンの面に淡いモスグリーンの格子が走り、その右側に白い犬の横顔が浮かぶ。犬の顔の下には赤い首輪が女性の口に対応するように描かれている。画面の上下が補色(反対色)で塗り分けられ、上下それぞれにその補色で表された顔(人、犬)がある。上下の境界に、赤い縞の入った右の掌が置かれている。
赤から緑へ、緑から赤へ。補色の組み合わせを上下で繰り返しているのは、目という感覚器官が対象を見つづけようとする働きそのものを表現するためなのだろうか。

 感覚器官が通常そう思われているような受動一辺倒のものではなく、産出的な力を持っているとはいっても、この場合の産出が完全に能動的なものではないことに注意しなければならない。目は〈青〉に対して〈赤〉や〈白〉を自在に産出することができるわけではない。光学上の性質にしたがって補色である〈黄〉を産出することだけが可能なのであり、目に許された選択肢はない。「解毒剤」という言葉をヴァレリーは使っていたが、いったん打ち消すことによって〈青〉がふたたび回復するように、つまり〈青〉を求めて、目は〈黄〉を産出するのである。ここで〈青〉は欲望の対象であり、欠如の対象である。「私たちのうちには、はじめの知覚を保持し、あるいは再創造しようとする傾向の欲望、欲求、つまり状態変化作用が存在するのである」。
 一器官が反射的に行う反応に対して「欲望」という言葉を使うのは、比喩による説明にすぎないと思われるかもしれない。(略)感覚器官の産出に関してまとめるならば、それが完全に能動的でなくまた自由を欠いているのは、それが欠如という仕方で外的な刺激によって束縛されており、欲望や欠如に促されての、やむにやまれぬ産出だからである。感覚器官が産出するものは、「興奮の欠如を補う応答、補完物であり――あたかもこの欠如は、それを私たちは単なる否定形で表すわけだが、私たちに積極的に働きかけるかのようである」。
 興奮の欠如が産出を促し、産出物が興奮を回復させると、その満足の減少がまた欲望を生んで感覚器官を産出へと向かわせる。「感じることにとどまる」とは決して静的な出来事ではありえない。産出を介して初めて成立するこのダイナミックなプロセスこそ、対象を見つづけようとする感覚器官の働きなのである。それは必然的に拘束的である。なぜなら産出という自身の力を、外的な刺激によって強制的に引き出されているからである。しかも目にとって快楽であるはずの刺激の多様性と変化は、ここでは最小限に抑えられている。にもかかわらず、断章で述べられていたように、疲労という要因を別にすれば、この満足と欠如の連鎖は無限に延長させられる傾向をもつだろう。(伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社〔学術文庫〕/2021年/p.218-220)

また、補色の画面の境界に、赤い縞の入った右の掌が置かれているのは、鑑賞者の行為を表すのかしれない。

(略)ヴァレリーにとって作品とは、〈生産者〉と〈消費者〉を結びつけつつ、しかし両者のあいだに割り込んでそれぞれ別のシステムとして成立させる媒介=切断項なのである。消費者は、作者の代弁者としての作品の内容を受動的に受け取るのではなもはやなく、作者から切り離されたところで作品に向き合い、積極的にそれを消費する。つまりこの三項図式が意味するところは、作品が「関係する二つの活動のあいだの直接的な連絡の不在」を要求するために、「消費者が生産者になる」ということである。ヴァレリーは伝達の構図を書き換えながら、読者をその受動的な位置から解放する。作者が生産するのはあくまで作品であって価値ではない。いまや作品の価値の作り手は読者である。描写が前提としまた強化する伝達の構図が読者に「信仰、信じやすさ、自己の破棄」を要求していたのに対し、この三項図式が読者に要求するのは、「積極的な協力」であり、受動的な承認よりは「抵抗」なのである。
 こうして読者は作者とではなく作品と向き合い、その価値を積極的に創り出す消費者となる。この考えを突き詰めていけば、作品の価値は消費の文脈次第ということになろう。消費者が属する時代や社会状況が違えば、作品の価値もまた変わる可能性はおおいにありうる。ヴァレリーもその可能性を認めている。それは「創造的な誤解」であって、作品とは消費者にとって「ある活動の起源」である。個々の読者が行う消費=生産活動こそが重要である。「文学的操作が対象を生み出すのであって対象によって文学的操作が生み出されるのではない」。(伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社〔学術文庫〕/2021年/p.64-65)