可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 永田康祐個展『イート』

展覧会『約束の凝集 vol.2 永田康祐「イート」』を鑑賞しての備忘録
gallery αMにて、2020年11月27日~2021年3月5日。

長谷川新のキュレーションによる展覧会シリーズ「αMプロジェクト2020-2021:約束の凝集」の一環として行われる、永田康祐の個展。摂食における身体・文化・技術の相互変容をめぐる約35分間の映像作品《Purée》を中心に、写真作品《Découpage》、映像作品《Digest(Translation Zone)》(約13分間)、彫刻《PC: The Last Night of the Stone Age(Prototype v1)》から構成される。

映像作品《Digest(Translation Zone)》は、永田康祐の映像作品《TRANSLATION ZONE》(ANOMALYで2020年に開催された展覧会『Echoes of Monologues』に出展)の要点(digest)を長谷川新が解説した映像作品。クロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」の狙いは料理(文化)の計量的把握にある。結果が等しければ過程は問わないという方程式型の発想には、グローバル言語への欲望との共通項を括り出せる。もっとも、"炒饭"や"nasi goreng"が英語で"fried rice"と表せるからと言って、"炒饭"と"nasi goreng"とを等号で結ぶことはできない。"Translation Zone"は、エミリー・アプター(Emily Apter)の著書のタイトル(邦題は『翻訳地帯:新しい人文学の批評パラダイムにむけて』)に基づいており、そこでは翻訳は常に翻訳の過程にあるとのヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の主張が紹介されているという。手に入る食材で間に合わせの料理を作るように、あるいは中国語などの語彙を流用したSinglishのように、舌(tongue)で味わう料理も舌を用いて話す言語(tongue)もブリコラージュによって文化間の差異が日夜乗り越えられている。長谷川は、千種創一『砂丘律』、松浦理英子ナチュラル・ウーマン』、ケン・リュウ『草を結びて環を銜えん』、本谷有希子異類婚姻譚』から、食べることをテーマとした部分を朗読(舌!)することで、二重の舌(tongue)による味わいを添えている。

映像作品《Purée》は、摂食における身体・文化・技術の相互変容を、ピュレ(purée)を手がかりに解き明かす。18世紀以前のフランスでは、食べ物を手で摑んで歯で食い千切って食べていた。神から賜った手を使うことが是とされていたという。だが食べるという生理的営みには肉体的で野卑なイメージを拭いがたい。摂食をいかに精神的で高貴な行為へと転化するかが貴族にとっての課題であった。18世紀以降、食卓にテーブルナイフとフォークを導入することによって、食べ物に手で触れたり噛み千切ったりする必要がなくなった。その結果、切端咬合から被蓋咬合へと短期間に身体が変化した。食べるための道具が食べる主体の変容をもたらしたのだ。また、調理場における召使いなどの多大な労力によって粉砕され濾されることで、食材はピュレやムースという形で食卓に上ることになった。噛む動作がアウトソーシングされ、食べることは味わうことへと純化された。中国の宋代に箸が登場して、箸で口に入れることができるように調理場で食材が微細に加工された(青椒肉丝を想起せよ)ため、ヨーロッパよりも早くに切端咬合から被蓋咬合への変化が生じていた。技術が料理(文化)を、さらには身体(主体)を変容させるのだ。2011年9月にニューヨークで起きた抗議行動「ウォール街を占拠せよ」において、当局からバッテリー式メガフォンの使用が禁止され、集った人々が発言者の声を繰り返すことで増幅させる「ヒューマン・マイクロフォン」がブリコラージュされたが、結果として、「ヒューマン・マイクロフォン」が持たざる者たちの抵抗を象徴することとなった。「ヒューマン・マイクロフォン」参加者はバッテリー式メガフォンと異なり、発言を必ずしもそのまま増幅するわけではない(そもそもよく組織化されていなければ増幅の機能を果たし得ない)。技術を用いる主体は、技術に影響を受けざるを得ないのだ。1973年にフードプロセッサが家庭向けに発売されることで、ピュレの調理過程は(かつての地下などの不可視の調理場ではなく)システムキッチンの明るい空間に現れ、臼歯のアウトソーシングは大衆化した。摂取されやすくなった食材の栄養素により、人々をその内側から変えている。
靴がなければ屋外を歩くことが難しい。道具の使用は、身体=主体を変容させる。考えることにおいても、紙と筆記具、算盤、PC、スマートフォンと、脳の働きは次々と現れる技術にアウトソーシングされてきた。ピュレなどの調理場面に、時折調理や食卓の歴史的な図像を重ねながら、食べることにおいて、文化・技術・身体が相互に影響を与え合って人間(主体)を変容させていく様を明らかにしている。