可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『Echoes of Monologues』

展覧会『Echoes of Monologues』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2020年9月16日~10月10日。

食べ物や人形など身近なものに目を向ける今井麗の絵画作品、家電・自動車・楽器など制作されたサウンドスカルプチャーを制作する宇治野宗輝の映像作品、映像作家の大木裕之が長期にわたり取り組んでいるシリーズからの2作品、開発好明による発泡スチロールを用いた茶室のインスタレーションコンスタンティンブランクーシの《接吻》へのオマージュである髙山陽介の木彫作品、料理と言語を素材に文化間の影響関係を描く永田康祐の映像作品、女性のロボットの姿を捉えたエレナ・ノックスの映像作品、潘逸舟による移民を鳥に見立てたインスタレーションを紹介。

 

今井麗
台所や食卓の料理や食材を描いた作品が並ぶ。特徴の1つはステンレスのワークトップにモティーフが映り込んだ像だ。鏡、鏡像の絵画と言えば、ディエゴ・ベラスケスだろう。すると、クマのぬいぐるみがバナナとともに描かれた《MELODY》は、ベラスケスの《鏡の前のヴィーナス(Venus del espejo)》の見立てと思われてくる。《CHERRY》のサクランボの載せられた白い皿は、スペイン帝国の国旗のような柄のテーブルクロスに置かれているではないか。鎖がついたジャガイモを描いた《POTATO ROCK》は、フェリペ2世のもとで活躍したティツィアーノの《ペルセウスアンドロメダ(Perseo e Andromeda)》の直後、すなわち救出されたアンドロメダが繫がれていた岩を描いたものではないか。《HAM AND EGGS》と《卵を料理する老婆と少年Vieja friendo huevos)》とを卵料理で繋げるのはやり過ぎとしても、スペイン絵画には「厨房画」とも呼ばれるボデゴンの伝統があるのは言を俟たない。キッチンを舞台にした絵を描く作者がスペイン絵画を意識しないはずがないのだ。ベラスケスと言えば、彼に私淑したエドゥアール・マネがいる。ホワイトアスパラガスを描いた《ASPARAGUS》に至っては、マネの《アスパラガス(L'Asperge)》のオマージュでなくて何であろう。ボデゴンの系譜から外れた作品、誰もいない雑草の蔓延る庭に佇む犬の玩具を描いた2枚組の大作《DISTANCE》に目を転じよう。子供の成長を喜びつつ一抹の寂しさを味わう親心の表象が主題であろうが、犬が後ろ姿で描かれていることに注目したい。鉄路に向かう女の子の後ろ姿を描いた《鉄道(Le Chemin de fer)》やカウンターの女性の後ろ姿が映り込む《フォリー・ベルジェールのバー(Un bar aux Folies Bergère)》といったマネの作品に通じるものを看取できるだろう。

 

髙山陽介
コンスタンティンブランクーシの《接吻(Le Baiser)》のオマージュとして制作された木彫作品。コーヒーの空き缶や新聞紙などが作品の構成要素となっていることで、卑近な印象を醸している。台座の制作もまたブランクーシの制作姿勢を踏まえてのものだろう。公園をイメージさせる、砂の上に置かれたタイヤに接吻の像を配した作品や、水面を意識させる水色や青のマットに接吻の像を配置したものがある。グレーのマットの作品では、ブランクーシの作品とは角度を変え、二人が上下に唇を重ねるアクロバティックな形態をとり、浮遊感を生んで楽しい。

 

永田康祐
《TRANSLATION ZONE》は、クロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」(焼く、燻す、煮る)を引き合いに、料理を数値によって一元的に把握しようとした人類学の手法から語り起こされる。料理の計量的な把握としての分子調理が続いて話題にされ、湯煎機、液体窒素、ガスバーナーによる「ローストしないローストビーフ」が起源を喪失した料理として例示される。ところで、言語の機械翻訳においては、文法のみならず使用例が反映される仕組みになっている。香港でいわゆる「逃亡犯条例」の改正案に反対するデモが起きた際、Google翻訳で"very sad to see Hong Kong become the part of China"という英文が"很高兴地看到香港成为中国的一部分"という中国語に翻訳されたという。"sad"が"遗憾"ではなく"高兴"とされたのだ。これは大量に"高兴"への修正提案が行われたために生じた現象だという。これもまた積み重ねという時間ないし歴史の欠如した量的な言語理解が生み出したものという点で、「ローストしないローストビーフ」に通じるものがあると作者は説く。"炒饭"を英語に直訳すれば"fried rice"となり、マレー語に逐語訳すれば"nasi goreng"となる。だが、"炒饭"を"nasi goreng"とは普通、理解しない。それぞれの文化・伝統を背景とした固有の料理だからだ。プラナカン(Peranakan/峇峇娘惹)出身のディック・リーの楽曲"Fried Rice Paradise"を例に、付加疑問が"ma(吗)"になるようなSinglishこそシンガポールアイデンティティだとのリーの主張に賛同を示し、プラナカンの料理を代表するラクサを紹介する。移民が出身地の伝統を反映させたのがラクサだからだ。クックパッドのようなレシピサービスに掲載されるレシピには、個人の事情を反映した多様なレシピが掲載されている。計量的には把握できない「小さな歴史=物語」の積層としての料理の姿がそこにはあると作者は訴える。ギャラリーのようなスペースで調理して食する過程に、シンガポールなどで取材した映像を重ねることで、数値では捉えられない文化(料理や言語)の魅力が歴史=物語にあることを明らかにする。


宇治野宗輝
《プライウッド・シティ・ストーリーズ 2》は、アメリカを経由して入ってきた北欧スタイルの巨大なTVセットが畳に食い込む様など、輸入文化と日本文化との折衷に「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会い」並の違和感を作者が表明する映像作品。和洋折衷が通常不問に付されているのは、日本人の思考がアメリカナイズされているためであることを、作家本人のJapanese Englishを用いた語りによって強調する。もっとも、家電・自動車・楽器などで制作されるサウンドスカルプチャーが登場させるなど、異なるものの共存する「キッチュ」の面白さをこそ味わわせようとの意図も感じられ、狐につままれたような感覚となる。