展覧会『ヒルミ・ジョハンディ「Landscapes and Paradise: Poolscapes」』を鑑賞しての備忘録
オオタファインアーツにて、2021年10月2日~11月20日。
7点の絵画と、2点の舞台の書割のような作品から成る、ヒルミ・ジョハンディの個展。
《My Raffles Experience (2)》(1500mm×1700mm)には、観光用のサイドカー付きの自転車「トライショー」を運転する男が描かれている。低層の宿泊施設であろうか白い建物が正面奥にあり、そのポーチを経由して画面手前に向かってカーブを描く道をトライショーが走って来る。ところが、今まさに通り抜けようとするのは、人形立てを付けたベニヤ板の書割の間である。道すらも平板な素材で作られて床に載せられたものだ。すると白い建物や周囲の植え込みもまた「舞台美術」かもしれない。対象を的確に伝える描写が、比較的幅の広い筆を素早く動かすことで実現されているために、画中で再現される風景と書割との差異が曖昧になっていることが、作品の謎めいた性格を強めている。
《Landscapes & Paradise Ⅷ(Poolscapes no.3)》(1965mm×2850mm)は、プールサイドに座る水着姿の女性を描いた作品。もっとも、画面の下部に焦茶色の床が、画面の上部にはピンクの壁が覗いているため、2枚の絵画が立て掛けられている光景を描いた作品と言うのがより正確だ。左の「画面」には半分以上をプールの水面が占めており、その奥(画面の上部)にはパラソル付きのテーブルと椅子並んでいる。右の「画面」に描かれたプールは左の「画面」のプールと接続しているが、水の色はより青に近い。「1枚」の絵画であるとともに、2つの画中画であることを示すのだ。右側で長座に近い姿勢でわずかに膝を上げる水着の女性は、その「画面」から切り抜かれたように、周囲に空白を残して表されている。この作品でも、とりわけ右側の画中画の描写において、大胆な絵具の塗りによって、対象とされる室内の光景とそこに置かれた絵画のイメージとの境界が敢えて曖昧にされている。
《Landscapes & Paradise Ⅸ(Poolscapes no.4)》は、壁面に立て掛けられた3枚の絵画を描いた画面(1600mm×1300mm)と、左膝に左肘を置いて頰杖をついている女性を描いた画面(1200mm×800mm)との2枚組作品。大画面では、ライトグレーの壁に木洩れ日を描いた絵画、椰子の木が脇に並ぶプールを描いた絵画、プールのラダー・ハンドルを摑む手を描いた絵画が、壁面の側から手前に向かって、位置をずらして並べられている。とりわけ椰子の木のプールサイドに立ち並ぶ絵画では、プールの周囲がコンクリートの壁に覆われている。おそらくはプールの光景を再現したジオラマを描いたのだろう。ジオラマ、ジオラマを描く絵画、絵画を描いた絵画という3つの階層が作品内部に存在している。そして、このような構造の大画面作品と組み合わされることで、プールサイドで頰杖をつく黒い水着の女性を描いた小画面作品が、実際に水着の女性を描いたものか、写真やイラストを描いたものか判然としなくなるのだ。
《Landscapes & Paradise Ⅻ(A Couple dancing at sunset)》(1520mm×1220mm)は、4枚の衝立や反射板で仕切られた奥に設置された、白亜の建物の回廊でダンスをする1組の男女の写真(あるいは絵画)を描いたもの。画面手前にはグレーの床があり、衝立やそれを支える安定足、反射板や撮影用のスタンドライトとそのコードなどが描かれる。パーテーションで仕切られた空間の床は採光のためであろう白く輝く床がある。シャンデリアのある瀟洒な回廊で踊る男女の写真(あるいは絵画)は、撮影のための背景であるらしい。写真撮影の背景を絵画に再現することで、絵画の対象が必ずしも現実の世界ではないことや、絵画が作家によって構想されたフィクションであることを訴える。
噴水を描いた絵画や噴水を模したと思われる板などを人形立てや土囊で支える《Landscapes & Paradise: Attractions and sceneries(Fountain gardens)》は、まさに書割であり、展覧会場を舞台に変貌させる。背景ないし書割として機能する絵画ないし写真を描いた絵画それ自体が背景画として機能することになる。そして、鑑賞者はイメージの外ではなく、イメージの中へと取り囲まれるのだ。
日常接する情報のほとんどは何らかのメディアを介して手に入れられていて、自らが直接経験して得られる情報は限られている。しかもメディアが伝える情報は、直接取材対象に接して得られたものなのか、第三者の取材内容を取り上げた二次的なものなのか、判然としないことも多い。現実と虚構との曖昧さを描き出す作品群は、「ポスト・トゥルース」の世相を反映していると言えるだろう。だが、それらは、身の回りの人物や事物や風景を描く肖像画や静物画や風景画と何ら異なることはない。スクリーン越しの対象は例えば林檎と同じくらい(あるいは林檎以上に)身近な存在だからである。問題は、目の前の林檎や絵画(の描き出すイメージ)との距離感は摑めても、映像の中の対象との距離感はうまく摑むことができないということだ。距離感の錯誤は、時に悲劇を生むことにもなる。