可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ロビンソン愛子個展『UTAMAKURA』

展覧会『ロビンソン愛子「UTAMAKURA」』を鑑賞しての備忘録
MARUEIDO JAPANにて、2021年9月4日~25日。

江戸時代の春画の影響の下、セックスを主題に絵画を描いている、ロビンソン愛子の新作展。水彩作品(コットン紙)「Utamakura」シリーズ5点とインク作品(和紙)「Blissful afternoon in the garden」シリーズ2点の7点で構成。別室では版画作品2点も展示されている。

ギャラリーは六本木通り沿いの1階にあり、銀色の入口扉の隣のガラス壁面越しに、白い壁面に飾られた《Utamakura #2》(506mm×1060mm)を鑑賞できる。緑を基調とした落ち着いた配色の布が3種、左側に(一部右側にも)菊花とアカシア(?)の葉、右側に菊花の重ね合わせ、敷くような下の位置に柏(?)の葉とコバンノキ(?)の葉が描かれている。横長の画面中央から右手にかけて、両手の上に両足を乗せた折り曲げられた身体が青い輪郭線で描かれている。屈曲した白い手脚は、迷彩柄として働く布と、それらの間に広がる白い空間とに溶け込んでしまう。通り過ぎる際に一瞥しただけでは何を描いているのか摑めないだろう。左右の太腿の間には、ごく細やかな膨らみに乳首が覗いている。また、左の太腿には支えるように別の人物の右手が添えられている。仰向けになった女性の太腿を(おそらくは)男性が抱え、画面外の女性器を男性が舐めている姿勢であろう。女性が手の指を足の指に絡ませ、あるいは摑ませている様子が扇情的だ。下に敷かれた布は女性(ムール貝≒女性器)を、右側の菊花の重なる布は男性を、位置関係も含め表わしている。菊花とアカシアのカーテンは男女を包むことでその一体感を強調するとともに、中央が開かれていることで、受け容れる態勢が整っていることを表わす。
紺の濃淡で菊花やムール貝などを表した布(輪郭・皺は黄土色)が、左側を中心に画面の半分程度を占める《Utamakura #1》(506mm×1060mm)では、右側に、男女ともに横臥した状態で、男性が女性の左脚を摑みながら背後から男性器を挿入する「浮橋」の体位が描かれている。但し、画面中央の女性の右の乳房を摑むのが男性の右手だとすると、女性が身体を浮かせていないと男性が腕を回すのは難しそうだ。もっとも春画では着物を介して「およそ人間身体にはありえぬような体位を描」くことがある(タイモン・スクリーチ高山宏〕『春画 片手で読む江戸の絵』講談社講談社選書メチエ〕/1998年/p.91-92参照)。本作品でも、左上から右下にかかる布が右乳房を隠し、右乳房の辺りにある右手と女性の胴体とを切り分けている。布を「すやり霞」として機能させているのだ。
《Utamakura #3》(506mm×1060mm)では、仰向けになった女性が右手で自らの右の太腿を抱え、男性が立った姿勢で性器を挿入している「本手」の変形の体位が描かれている(なお、結合部は女性の左足によって隠されている)。畳や床、そこに敷かれた着物や布団の上で行為に及ぶ江戸時代の春画には、本作品が描く、ベッドやテーブルの天板に寝かせるような姿勢は登場しないのではないか。画面を覆うように描きこまれた布(描線は灰色)には、青花磁器のような青い菊花や複葉の文様に、濃淡のオレンジで描かれた菊花や葉が重ねられている。画面左手にかかるカーテンに表された開花しそうな石楠花の蕾は、絶頂が近いことのメタファーとして描かれている。
紫と濃紺で布の菊花その他の植物文様やムール貝を表した《Utamakura #4》(380mm×1060mm)では、女性が仰向けになって両脚を大きく広げ、左手で自らの左足首を摑んでいる姿勢を描いている。男性の身体は、女性の右脚の位置で女性の右手に重ねられた左手しか描かれていないが、画面左下隅に位置する女性の陰部(布によって隠されている)を舐め上げているのだろう。
《Utamakura #5》(380mm×1060mm)は、男性に覆い被さる女性の身体を左腕から臀部にかけて描いている。男性が両手を女性の大臀筋に宛がっているので、「茶臼回し」である。画面左側・上側に菊花・柏葉・複葉にムール貝を合わせた布を、画面右側・下側には複葉・松茸の布を配し、女性上位を示す。
「Utamakura」シリーズの特色として挙げられるのは、まず、顔を表さないことでセックス自体を描くことが強調されていることである。次に、そのことと相反するようでもあるが、性器の表現は避けられていることである。第3に、性器を描かない代わりに、身体の接触、とりわけ手を通じて、男女の一体感を演出していることである。第4に、布の表現によって、男女の一体感を強調し、性的表現を暈かし(カムフラージュし)、なおかつ春画の伝統(≒着物の表現)に連なろうとしていることである。

 浮世絵中のエロティサイズ(性化)された世界に布を扱い、布に触れる描写が多いのは重要なところである。(略)
 (略)
 衣装はこの上なくパーソナル(極私的)なものだったし、女性の衣服は彼女が布を選んだり、特別な贈り物として布をもらったというばかりか、自らの手で仕立てたということもおそらくあって、彼女だけの特別なものであったのだろう。衣服がきたなくなると糸をほどいて、それから彼女自身の身体のしるしを取り去ってから、また縫い直すのも彼女であった。
 (略)
 大金持ちは別として(町人の日々の暮らしの中でお目にっかることはほとんどなかっただろう)、華やかな衣服といえば遊女の衣服であった。江戸の男たちが高級な衣服に触れるのはどの折りにもまして遊女や陰間の腕に抱かれながらということであったはずだ。
 最高品質の布のテクスチュア(織地)と外観の性的な力は大変なもので、実際、なま肌の感触よりもっとそそるものとされたとして不思議はなかった。良き布は良き肌より手にし難く、江戸時代にはより高くついた。1人の娼妓との1回の逢瀬は、彼女のまとった衣服の額より安かった。
 セックスするのに必ずしも裸になる必要はないのである。寒暖を自由にできる社会は裸であることの楽しみを知りやすかろうが、江戸はそうではなかった。温度をコントロールするのは四季の力であり、火鉢みたいに人の力が介入できる余地はほんの僅かであった。どうして着ているものを脱ぐ必要があるのか。
 (略)
 江戸時代にあっては、どれくらまで脱ぐか(少しか沢山か、あるいは全部か)は季節その他のコンテクスト次第であった(密かな逢瀬であるのか、何時間いくらの短い出会いであるのか、といったことである)。それにしても全裸になっての性行為はほとんどなかったと言ってもよいだろう。
 衣服と官能とのこうした関係を見ると、衣服が春画に多いということも何となく納得できるのだが、もっとも春画中の衣服の使われ方が現実の性行為を映し出しているとは限らない。「枕ざうしの通りにすればさむい」と川柳にもある通りである。
 春画に描かれる衣服の肌理は文字通り恐ろしくきめ細かいが、これとて現実の衣服を誇張している。もっとも最高級の遊女はそれくらいのものを着ただろう(が、だれも彼もがお相手できる遊女ではあるまい)。これとて春画の神話であろう。
 なるほど寛政期の絵の中に描かれた衣服の水準は落ちることが多かったが、専ら版元が人々に奢侈を勧めているという嫌疑を予め免れようとしたからで、つまりはリビドー(性)そのものとは無縁の政治的理由からということだった。
 実際、同じ寛政期の作品が逆の手に出て、現実の沈滞した布の文化を、贅の限りを尽くした衣服を紙上に描きだすことで補償したとも言える。
 いずれにしろ画中の衣服が現実の衣服と同じであるわけがない。実際のアッハンウッフンの濡れ場では着物など乱れ放題なのだし、第一、皺は寄り、汗その他の体液で汚れてしまう。絵の中でのみ、そうした顧慮は無用なのだ。衣服がこれ以上ないほど乱れることができるのは絵の中でなのだ。(タイモン・スクリーチ高山宏〕『春画 片手で読む江戸の絵』講談社講談社選書メチエ〕/1998年/p.78-86参照)

モノクロームの画面の「Blissful afternoon in the garden」シリーズ2点は、いずれも繁れる葉、乱れ咲く花の中に、性愛に耽る男女の姿の断片が、あたかも望遠鏡で覗いたように部分的に表される。「Utamakura」シリーズに描かれた布の装飾が庭の景観として立ち上がったものと言えよう。興味深いのは、木の間に洋館が姿を現していることである。しかも建物は屋根と窓とが見えているのだ。井原西鶴好色一代男』の主人公・世之介が「屋根」の上から小間使いの女の行水を「遠眼鏡」(レンズ=ガラス)で覗く場面を連想しない訳にはいかない。建物、とりわけ窓の存在は、鑑賞者に「覗き」を自覚させるとともに、被写体となる画中のカップルが、覗かれていることを意識して、その興奮の度合いを高める装置となっている。