可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『TOKAS–Emerging 2021 第1期』

展覧会『TOKAS–Emerging 2021 第1期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2021年4月3日~5月5日。

水上愛美「Dear Sentiment」(1階)、宮川知宙「遠くを見ること/そこへ行くこと」(2階)、都賀めぐみ「大きな蛇の樹の下で」(3階)の3つの展示で構成。

 

宮川知宙「遠くを見ること/そこへ行くこと」(2階:SPACE BおよびSTORAGE)
照明が落とされた暗い展示室の奥に投映されている映像は、グッゲンハイム美術館コンスタンティンブランクーシの彫刻を捉えた場面から始まる。ブランクーシは作家が長年憧れてきた作家である。なお、展示タイトルは、ブランクーシの言葉であるとネットで紹介されていた、出典不明の「遠くを見ることと、そこへ行くことはまったく別のものである。」に基づく。
映像は、LINEの画面に切り替わる。友人の美術家から展示を見に来て欲しいとの誘い。作家は展示を見ないことにしていると返す。会場には顔を出せるし、画面越しならデジタル処理されているから見られると付け加えると、友人は作家の意図をすぐさま理解して、作品を撮影して見せると反応する。
「実際に作品を自分の目で見ることの価値とは一体何なのか、漠然と疑問に思っていた」作家は、新型コロナウイルス感染症が猖獗を極める中、展覧会で作品を鑑賞する行為を止めた。だからと言って展覧会に足を運ばない訳ではない。会場で積極的に作品を見ようとしないだけだ。横浜トリエンナーレで映像作品を展示する部屋で作家が座っていたり、東京都現代美術館オラファー・エリアソン展において《太陽の中心への探査》の前で作家が展示リストで顔を覆ったりする様子も映し出されている。
作家は星を見に行く。夜空に光る星々は、恰も天球というドームに貼り付いているように見える。だが、「天球」はあくまで見かけであって実在しない。
森美術館のSTARS展で、作家が宮島達男の作品を前に立つ。作家の眼鏡が、デジタルカウンターの数字を反射して光る。眼鏡が「天球」となる。
作品を見るとはいかなることか。肉眼で見たら見たと言えるのか。眼鏡を通しても見たと言っていい。それならば、スマートフォンの画面越しでは見たと言って良いか。
今から100年ほど前に活動した白樺派の同人たちに西洋美術のオリジナル作品を見る機会はほとんど無かった。丸善で売られていたヨーロッパの美術雑誌や画集などを通じて、美術への興味と理解とを深めた。彼らは図版や複製を見ていたのだから、美術作品を見てはいなかったのだろうか。現在、日本にいながら、海外の著名な作品を美術館で鑑賞する人たちは、白樺派の同人たちと異なって、オリジナルを見ているのだから、白樺派の同人たちより美術に対する情熱を持ち洞察を備えていると言えるだろうか。映像を展示しているSPACE Bの隣の小空間では家庭用のプラネタリウムが投影されている。鑑賞者に満天の星空を呈示している。東京の空では目にすることの出来ない綺羅星。それは、明治末期の白樺派同人たちの見た泰西名画の複製画に比することができよう。
作家は、展覧会場に赴きながら、敢えて作品を見ないことによって、鑑賞者に本当に作品を見ているのかとの問いを突き付ける。見ることについて再考を促すのだ。「自分がある本を読んでいるかどうかを明確に知るのは難しい。読書の記憶というのはそれほどはかないものだからである」。ピエール・バイヤールが『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、2016年)において、本を「読んだ」か「読んでいない」かの区別が容易にはつけらない(読んだ途端に忘却が始まる!)ことを指摘しているように、美術作品を「見た」か「見ていない」かとの境界もまた曖昧である。
なお、映像作品や会場で配布されているリーフレットにおいて、作家は、美術家や展覧会の名前を伏せている(上記では名を挙げたように、映像・記述から容易に特定できる)。それは、ネーム・ヴァリューなど、色眼鏡で作品を見ていることを暗に訴えるためであろう。