可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『誰かのシステムがめぐる時(第2期)』

展覧会『トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2023 成果発表展「誰かのシステムがめぐる時」(第2期)』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2023年8月19日~9月24日。

トーキョーアーツアンドスペースが実施するレジデンス・プログラム「クリエーター・イン・レジデンス」参加者の成果発表展。2023年度の第2期では、台北の住居の窓に取り付けられた鉄柵をモティーフとしたインスタレーションなどを出展する太田遼(台北)、フィンランドに建設される核廃棄物の最終処分場オンカロをテーマにした映像と写真を提示する新井卓(ヘルシンキ)、古い日本家屋を舞台に最小限の振り付けで演じられるダンス劇を上映するグシェゴシュ・ステファンスキ(東京)、戦犯の記録資料上で動作する掃除ロボットにより歴史のナラティヴの問題を提起し、またハマユウを用いで気候変動がもたらすアポカリプスを訴えるベルトラン・フラネ(東京)、シアノバクテリアが宿主とするイシクラゲを複数の素材で植木鉢に仕立てたラービッツシスターズ(ベネディクト・ジャコブ&ロール=アンヌ・ジャコブ)、5組6名の作家の作品を展観。

太田遼は台北の窓に設置される鉄柵が室内空間を延長していることに着目し、会場「内」に鉄柵のインスタレーション《Inland Outside》を設置した。その鉄柵は展示壁によって隠されている建物自体の壁に設置された窓から延長されている。すなわち、台北の鉄柵とは逆に、作家の鉄柵は建物の外部空間を延長して見せた。実際、作家の鉄柵は鑑賞者を鉄柵内部に立ち入れなくしている。鉄柵が掠め取って見せるのは、トーキョーアーツアンドスペースという公共施設の空間である。まさに台北の窓の鉄柵が「どこか公共空間を盗んでいる感覚」を提示する。内と外との入れ籠の関係は、漠然とした公共のイメージを揺さぶる。

ラービッツシスターズは シアノバクテリアを用いたマルチスピーシーズの作品「光合成する植木鉢」シリーズなどとともに、東京の住宅街の路地園芸をリサーチした写真作品を提示する。玄関先など敷地内だけではなく、街路・歩道に展開するプランタープライヴェート空間の延長と言える。だが路地園芸が都市緑化に貢献していることを勘案すれば、路地園芸に公共的性格が認められる。

ベルトラン・フラネの《太郎(文芸)》において、巣鴨プリズンの記録集の上で動作させる掃除ロボットは、受刑者の思いを想像で「告白」する。消去しつつ、書き重ねられる言葉。それは、受刑者の私的な語りの、軍事裁判という公共のナラティヴによる書き換えであり――プライヴェートの語源に公共性の剥奪があることを思わざるを得ない――、なおかつ、作家個人による語りである。「正史」の類であろうとも1つの私的語りに過ぎず、歴史とは公共性をめぐる鬩ぎ合いの場であることを明るみに出す。

グシェゴシュ・ステファンスキのモノクロームの映像作品《永久に、そして儚い私たち》は、古い日本家屋――襖などの建具による仕切りは内外の反転可能性を示唆する――の内部での男女の鬩ぎ合いを描く。建具などを叩くことで生まれる音は増幅され、最小限の動作で演じられるダンスの緊張感を与える。水平方向に移動するカメラは、繰り返しの上映と相俟って、人間の営みを強調する。例えば、瞳の前に翳される指(爪)を捉えるシーン。それは(とわけ短篇の)映画の1シーンとしては長く見える。だが、実際には秒の単位の時間だ。永遠のようでいて、極めて儚い。それが、人間のスケールの時間なのだ。

新井卓は、映像作品《/*わたしたちの*/世界の終わりのモニュメント/反モニュメント》において、オンカロでは核廃棄物のプルトニウム――何度かの半減期を経て安全性を確保するのに10万年が必要と言う――が地下500mの花崗岩の岩盤の中に100年かけて埋設され、その後の放置により森林が覆い、氷河が覆うという計画を紹介する。併せて、森林や氷河地形を提示することで、人間の時間のスケールに対して、樹木(森林)や岩石の時間のスケールに思いを馳せさせる。石ころに仙を見て木彫にした(《石に就て》)橋本平八は人間に解決できない問題は天然が完全に解決すると述べた。オンカロも自然に解決を委ねている点では同様である。だが、橋本平八は神を祈るものも神を見ないとも言う。オンカロの担当者の言葉には感じられない心がある。

藝術󠄁に對して大膽なれ。人間に對して小心なれ。天然の前󠄁に小心にして1本の草にも偉大を感ずるこの心こそ眞に人間の心である。(江尻潔・土方明司監修『顕神の夢――幻視の表現者』顕神の夢展実行委員会/2023/p.164-166)

氷河が生み出した平原に残された岩を捉えた写真《ガンドヴィク、ヴァランガーフィヨルド》は、作家の引用する草野心平の詩「石」「雨に濡れて。/独り。/石がゐる。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」に与えられたイメージであり、それは橋本平八の思想にも通じる。