可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 有元伸也個展『TOKYO DEAD END』

展覧会 有元伸也個展『TOKYO DEAD END』を鑑賞しての備忘録
TOTEM POLE PHOTO GALLERYにて、2023年9月19日~24日。

東京・多摩地域で撮影された住宅街や自動車道など郊外の景観を42インチロール印画紙に焼き付けた12点で構成される、有元伸也の写真展。

左側に並ぶ平屋はかつての商店か。人の気配は無い。アーケードだったらしく、鉄骨だけになった屋根が被さるアーケードだった道には油という文字が残る看板が、いつの間にか成長してしまったらしい木に立て掛けられている。
タイヤのない廃車が茂みに半ば隠れている。廃車の手前には物干し台が立つ。洗濯物が干されなくなってどれくらい経つのか。
郊外の道路。画面左側には金属製の壁が奥に伸びる。右側からガードレールが左の金属壁に真っ直ぐ設置されている。金属壁とガードレールとに挟まれてできた画面手前の空間には白いレジ袋やペットボトルが散乱している。通行する車はあるらしい。
山の中の道か。画面手前の道にはガードレールと金網フェンスがあり、その奥には木々が広がる。画面左手には電柱が高く聳える。
正面から奥の住宅街の方向へ真っ直ぐ伸びる道には誰の姿も無い。道は途中で行き止まりになっていて、カーブミラーが立つ所で右に折れるらしい。道の左右には木製の杭と金属ワイヤーの柵が並ぶ。トラ柄のガードフェンスも見えるので建設予定地のようだが今は草が生えるだけだ。道や住宅街には電信柱や送電用鉄塔が立ち並ぶ。
木々の中の開けた土地に立つ2階建ての建物。1階には雑多ものが積まれているので倉庫だろう。脇には車が見えるものの、人の出入りする様子は感じられない。
開けた場所に建設された真新しい道路が正面奥の小山の脇を削り取って伸びる。木々の生える丘はかつての自然堤防の一部か。ひょっとしたら古墳であったということはないのだろうか。車の通行は全くない。遠くには送電用鉄塔が見える。
波板の壁のある建物の窓は割れている。屋上にガソリンと書かれた看板が立つ。周囲には電柱が建ち並び電線を渡している。
造成中の宅地用の分譲地。その間をカーブしながら下る道。正面奥に無数の分譲住宅を望む。送電用鉄塔が並ぶ。
3つの直方体を積み上げた同形式の墓が隙間無く並ぶ墓地。その奥には巨大な集合住宅群が覗いている。
住宅地の中にある小さな公園。人影は無いが、3体のキャラクターが立つ。電柱は電線を伝える。
道の脇に立つびっしりと花のついた木。送電用鉄塔が送電線を延ばす。

2021年に練馬区立美術館が「電線絵画展 小林清親から山口晃まで」を催し、電柱・電線をモティーフとした絵画群を並べて見せた。その第8章は「東京の拡大―西へ西へ武蔵野へ」と題され、坂本繁二郎(久留米)、児島善三郎(福岡)、佐伯祐三(大阪)、西尾善積(京都)の絵画(1910年代~30年代の制作)が取り上げられた。

(略)描かれている場所は雑司ヶ谷、下板橋、下落合、練馬(石神井)と、彼らが上京後居住していた周辺であることがわかる。この辺りは当時、東京(東京市)の西の郊外、“西郊”と呼ばれており、それまで農地や原野であった地域が、同論お成美、電力や鉄道網の普及、宅地の造成により入居留人口が目覚ましく増えていくなか、画家たちもこうした新興の街にアトリエを構えたのである。これらの作品は私たちの目には記憶にある、あるいは今でも見かける住宅地の様子に見えもするが、旧街道から整備、拓かれた“道路”は昔とは比べものにならないほどの「坦々たる良路」であったとされ、大正期に登場した大型のトランスを備えた街のシンボルのような電柱、道路と電車の軌道の立体交差は、若い芸術家にとって新しきわが街の証であったのである。(加藤陽介企画・編集『電線絵画 小林清親から山口晃まで』求龍堂/2021/p.90-91〔加藤陽介執筆〕)

『TOKYO DEAD END』は坂本らの描いた描いた西郊よりも遙かに西である。そこ広がるのは拡大途上の新しい街ではない。既に「行き止まり」で折り返した、衰退局面にある街である。
『TOKYO DEAD END』の会場には「知らない町へ行ってみたい、だがどの町も同じにみえる。」というワレリー・アファナシエフの詩が引用されていたが、まさにその通りの景観である。同じに見えるのは、道路とガードレール、電柱あるいは鉄塔と電線、分譲住宅や集合住宅、蔓延る雑草など、同じようなパーツの組み合わせで風景が構成されているためだろう。
作家は、空き家ばかりの集落や、人気のない分譲住宅に墓場を見て、「行き止まりの風景」を捉えた。それを象徴するのは、巨大なアパルトマンと近傍の墓地を捉えた写真だ。生と死という対照ではなく、同じ直方体の列として同じものだとの印象を受けてしまう。
古びた看板、あるいは公園に立つキャラクターは、郊外の風景を書割に見せる。誰の姿もない舞台は、終演した芝居であり、世界が白昼夢であったことを露わにする。道路建設のため、あるいは宅地造成のために改変された大地の歴史に比するとき、人々の時間は刹那に過ぎない。