展覧会『顕神の夢―霊性の表現者 超越的なもののおとずれ』を鑑賞しての備忘録
足利市立美術館にて、2023年7月2日~8月17日。
「顕神の夢」とは、場合によっては宗教の原因ともなり得る、現実世界を超えた場から来る合理的には説明のつかない「何か」を冀求する心情に仮に与えた名という。取り上げられるのは、円空(鉈彫《十一面観音菩薩立像》)を唯一の例外として全て近・現代の作家たちであり、以下の5つのセクションに分けて紹介されている。「何か」を直感して記録する「見神者」として、出口なお、出口王仁三郎、岡本天明、金井南龍、宮川隆、三輪洸旗。幻視ないし宗教的なヴィジョンを制作の動機とする作家として、古賀春江、河野通勢、村山槐多、関根正二、萬鐵五郎、高橋忠彌、三輪田俊助、藤山ハン、芥川麟太郎、齋藤隆、八島正明、内田あぐり、庄司朝美、花沢忍。心の中で見た光を表現する作家として、横尾龍彦、藤白尊、上田葉介、黒須信雄、橋本倫、石塚雅子。感得した神仏や魔の姿を表現する作家として、円空、橋本平八、藤井達吉、長安右衛門、秦テルヲ、牧島如鳩、高島野十郎、佐藤溪、平野杏子、石野守一、若林奮、真島直子、黒川弘毅、佐々木誠、三宅一樹、吉原航平。現実世界に馴染めず常人とは異なる視座から世界を見詰める作家として、宮沢賢治、岡本太郎、草間彌生、横尾忠則、舟越直木、O JUN、中園孔二、馬場まり子、赤木仁。
【Ⅰ:見神者たち】
出口なお・出口王仁三郎、岡本天明、金井南龍といった神道系の宗教家とともに、「やっかいなことに」に取り憑かれて絵を描き、カンカカリャ(宮古島の霊能者)からカンカカリャに認められた宮川隆や、岡本天明の《三貴神像》を見てスサノヲを描き出してしまった三輪洸旗など、見神体験を記録するために作られた作品が並ぶ。美術館には仏教やキリスト教に纏わる美術作品が溢れているが、宗教的観点ではなく美術的観点で鑑賞する結果、宗教性は後景に退いている。それに対し、27年間20万枚の墨書を遺した出口なおの《お筆先》から始まる「見神者」のコーナーは、普段目にする機会のない天真爛漫で邪気の無い宗教美術を正面から取り上げている。出口王仁三郎は「芸術は宗教の母」との言を引き合いに、ワケミタマを得たミコトモチとして宗教家=芸術家の存在を考えさせるのである。一部のアウトサイダーアートにも見られるような凄みこそ、合理的には説明のつかない「何か」――それは神と呼ぶか否かは置くとしても――の顕現なのだろう。
【Ⅱ:幻視の画家たち】
人知を超えた「何か」を感じる能力が備わっていると考えられる作家たちが取り上げられている。主に大正期の著名画家(河野通勢、村山槐多、関根正二、萬鐵五郎)の作品と100年後の現在に活躍する作家(藤山ハン、芥川麟太郎、内田あぐり、庄司朝美、花沢忍)の作品とが対照されている。宮沢賢治に影響を受けた高橋忠彌の《水汲み》という作品には作家の手になる「このぬま かがみなり/かがみは うつすなり/くもの かげもあり/とりはなも うつるなり/ぼくも うつるなり」との詩が併せて紹介されている。《水汲み》には水鏡としての池を描き出すが、絵画自体もまたこの世ならぬものを映し出す鏡である。
【Ⅲ 内的光を求めて】
祖先から受け継がれた潜在意識が夢の中に現れる。覚醒時にも見えるとき、それは神の顕現である。夢の中に光を見るなら、人は光を自ら作り出すのだとの指摘が興味深い。石塚雅子《夜》は恰もその絵解きのようで、闇の中で雑草が発光する。
【Ⅳ 神・仏・魔を描く】
石ころに仏を認め、それを木彫に写した橋本平八《石に就て》は、自然が神の造形物であり、その中にワケミタマを見出した作品であることがよく分かる。蝋燭の光を執拗に描き出した高島野十郎も「花1つを、砂1粒を人間を同一物に見る事、神と見る事」と記している。黒川弘毅のブロンズ彫刻「Golem」シリーズは、神仏の感得でこそ生まれた形に見える。
【Ⅴ 越境者たち】
本展のメインヴィジュアルに採用された、手とそこに現れた目とを描いた、中園孔二の《無題》(410mm×273mm)は、それほど大きな作品ではないが、どこかへと人々を誘う得体の知れない力がある。宮沢賢治の《日輪と山》はまさに日輪で表された神の依代として山を描き、山は異界への道となっている。《無題(月夜のでんしんばしら)》の電信柱は、霊夢を感得する作家そのものである。舟越直木のシルエットやのっぺらぼうの作品群も、神憑りを表す作品であろう。