展覧会『熊谷亜莉沙「私はお前に生まれたかった」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2022年4月16日~6月25日。
9点の絵画とそれぞれに付された文章から成る、熊谷亜莉沙の個展。
《You or I》(1950mm×970mm)は、暗闇の中に浮かび上がる、頭部の欠けた陶製の豹を写実的に描いた作品。右耳、額、上顎などが欠落し、釉薬によりつやつやとした赤い口腔下部とそれを取り巻く歯、そして豹の体内へ続く空洞が目を引く。縦長の画面の上半分弱は漆黒で、画面下端は豹の前肢の付け根の当たりで途切れている。作品の脇には、「大勢の神様の顔横並べ一つ選んであなたがいい(Of all the subjects of worship / You are the one for me)」という七五調の言葉が記されたプレートが掛けられている。縦長の画面の《You or I》と対となる、横長の画面の《You or I》(970mm×1950mm)は、豹の陶器の頭部の破片を鏡面に置いて描いたと思しき作品。縦長の画面に描かれた豹の陶器に比して、横長の画面の陶片はかなり拡大して描かれている。モティーフ釉薬のかけられたオレンジの表面が鏡に置かれ、陶片よりも鏡像の目の方が画面にはっきりと大きく表わされている。本作品の「いつまで経っても 死者は追いかけてくる/彼らの『かけら』が『許されたい』と語りかける/本当に許されたいのは私(It feels like forever / The ghosts stroke me / The 'fragments' of them beg me for 'forgiveness' / It's really me who wants to be forgiven)」という言葉がプレートに記されている。
縦画面の《You or I》に描かれた陶製の豹は、作品に付されたテキストから「神様」であることが分かる。その陶製の豹の頭部が破壊されているのは、神が殺害されたことを表わす。だが、神は死して、より強力な存在として復活を遂げた。それが横画面の《You or I》に描かれた、元よりも拡大された陶片の目である。神は、神を弑逆した作家に内面化され、作家は常に(=「いつまで経っても」)神(=「死者」)の目を通して自らを眺めるようになった。その自己監視を表現するため、陶片は鏡の上に描かれねばならなかったのである。そして常時監視される作家は、「本当に許されたいのは私」と吐露するのだ。
(略)スラヴォイ・ジジェクは、ラカンの読み方を教えるテクストの中で、ドストエフスキーのこの短篇〔引用者註:「ボボーク」。アルコール中毒者と思しきイワン・イワーヌイッチが、墓地で死者たちの会話を聞く。彼らがあらいざらい本当のことを告白しようと取り決めたタイミングでイワンがくしゃみをすると、死者たちの声は一切聞こえなくなってしまった。死者たちは生きている人間には分からない秘密を隠そうとしているに違いないと考え、イワンは墓地を後にする。〕をとりあげ、これを、カフカの『審判』に出てくる「法の門」の寓話と類比的に解釈するべきだという興味深いことを提案している。
「法の門」では、田舎から来た男は、開け放された門の前にまで到着しているのだが、いつまでも門の中に入れてもらえず、ついに臨終のときを迎えるのだが、意識を失う直前に、門番から、門はただその男ひとりのためにのみあったということを告げられる。法の門の向こう側には、法の秘密があるのだろう。その秘密が何であるかは、最初から暗示されている。門の向こうには何もなく、法は内容的には空虚だということ、これが秘密である。では、法の効力は消滅しているのかと言えば、そうではない。逆である。田舎から来た男が、律儀に「門の中に入るな」という禁止に従い続けたことが示しているように、法は内容のない形式のままに、厳格にその効力を発揮し、男を捉え続けた。どうしてなのかということは、法の門が、彼のためだけのものだ、ということから解くことができる。形式だけの空虚な法は、男の欲望を投射しうるスクリーンとなっていたのだ。法を求める男の欲望を、である。
同じことは、「ボボーク」にも言えるのではないか。この生ける死者たちの秘密とは、きっと「神は存在しない」である。だが、「法は空虚である」という秘密が事実上はあからさまになっているまさにそのとき、法が厳格に支配したのと同じように、「神が存在しないという条件が示されているそのときに、なお神が事実上存在しているのと同じ効果が現れるということがあるのではないか。つまり、法の内容を消去してもなお法が形式として支配しえたように、神を殺したつもりでも、なお神が存在し続けるということがあるのではないか。法の門が、田舎から来た男のためだけにあったとするならば、墓場での死者たちの会話は、イワン・イワーヌイッチのためだけに上演された芝居のようなものだ。観劇しているイワン(=ドストエフスキー)は、きわめて宗教性の強い人物だということを考慮しなくてはならない。法の門に、男の法への欲望が投射されるように、墓場での芝居には、イワンの宗教性が投射されている。
よく見れば、墓場の死者たちの世界が、何でもありの放埒な社会とはほど遠いことがわかる。彼らは、ほんとうのことを語ることを、生者よりも強く求められている。しかも、そうすることに快楽を覚えるようでなくてはならない。イヤイヤではなく、心底から喜んで告白しなくてはならないのだ。「すべてが許されている」どころではない。
とすれば、神は、何らかの意味でまだ存在している、と考えるべきだ。法の内容が還元されてしまった後で、法が、形式だけになってますます効果を発揮したのと同じように、である。考えてみれば、墓場の死者たちは、自身の肉体的な死を超えて生きているではないか。だからこそ、彼らは、好きなことを語ることができるのだ。彼らが死後を生きることができるのは、神がそれを可能にしてくれているからだ。彼らの存在は、神の不在の証どころか、最もシンプルな神の存在証明である。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.53-55)
神(の目)を表わした横画面の《You or I》の左右には、闇の中に浮かび上がる生花を描いた(同じタイトルとサイズの)《BABY BED》(700mm×600mm)が展示されている。それぞれ左寄り、右寄りに花が描かれ、それらによって挟まれる神(の目)(横画面の《You or I》)と漆黒の闇によって接続する。花々は、供花である。右の《BABY BED》に添えられている詞は「Close to you 口遊む男の上に月暈("Close to you" / There's a moon halo over the man who sings softly)」である。「男」は神であり、「傍にいたい(close to you)」と告げるのだ。「男」は月暈を伴うことで、月に擬えられる。闇すなわち夜にある限り、「いつまで経っても」、死者であり、神である月は「追いかけてくる」。左の《BABY BED》に「耐えながら涙を流す女を見て 男は『真夜中の雪のように静かだ』『真夜中の雪は、すごく綺麗なんだ』と言った(Looking at a woman in tears, refraining, the man said "It's tranquil like snow in midnight" "The snow in late night, you know, is very beautiful")とあるのは、常時監視されることに耐えられない「私」に対する「神」からのお告げである。もっとも、お告げとは、実は「私」のモノローグである。なぜなら、神は月であり鏡であり、それを眺める「私」自身の姿が映っているに過ぎないからだ。神の正体は「私」なのである(第三者の審級は内面化されている)。その証拠に、胸の前で合掌する、クリーム色の陶製の天使を描く《she》(210mm×297mm)の詞書に着目してみよう。「彼女は『あなたみたいな顔の天使を見たことがある』と言う/存在しないペニスの幻想に横たわる友情と呼ぼう何か(She says "I've dreamt of a dear thing with a face just like yours" / Illusion of a penis between the two / Let's call it friendship for the time being)」。神(=男)と同一である「私」は女であり、そこに男根は存在しない(Illusion of a penis)。翻って、縦長の画面の《You or I》で破壊された豹の像が晒す空洞は、男根を切り取り形成された女陰であったのだ。父なる神の地位を娘が簒奪したことの傷跡である。
光沢のある黄色いジャケットを羽織った老年の人物の左半身が浮かび上がる《Leisure Class》(965mm×1445mm)は、有閑階級(leisure class)とは真逆の存在である、映画『ジョーカー(Joker)』(2019)でJoaquin Phoenixが演じたジョーカーを描いたもののように見える。「男が自分が恐ろしいとあんまりしくしく泣くので/月で否応なく変貌してしまう狼男の気持ちを慮る(Because the man kept on weeping, being afraid of his own impulse / I contemplate over the werewolf's tragedy, turning wild in reaction to the moon)」との作者のコメントも、心優しき道化師であったアーサー・フレックが困窮に喘ぐ中で次々と襲いかかる災難に精神に破綻を来したジョーカーについて述べたものと解して全く違和感がない。