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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 高橋大輔個展『絵画をやる―ひるがえって明るい』

展覧会『高橋大輔個展「絵画をやる―ひるがえって明るい」』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2022年9月10日~10月8日。

高橋大輔の絵画展。

会場でまず目に飛び込んで来るのは、入口の向かい側の壁に設置された、縦長の明るい白の画面一杯に紺色で「太陽」の文字を描いた《太陽》(2273mm×1620mm)である。すぐさまエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の《太陽》(オスロ市立美術館蔵。2018年末から翌年初めにかけての東京都美術館で開催されたムンク展に出展)を思い出した。ムンクの《太陽》は、氷河の造る谷を想起させるU字に抉られた地から臨む湾の対岸に上がった太陽を、小さな円とそこから放射状に放たれる黄を中心とした線で表現している。一見すると作家の《太陽》とは似ても似つかない作品である。もっとも、ムンクの太陽は1630mm×2055mmであり、縦と横との違いはあるが、画面のサイズはかなり近い。
ところで、ムンクニーチェの思想に強く影響され、依頼されてニーチェ肖像画も描いている。ニーチェは、キリスト教的な価値観の崩壊を訴え、「神は死んだ」との言葉で知られる。聖書では「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(『ヨハネの第一の手紙』1:5)と、神は光に擬えられている。「神は死んだ」と神の不在を訴える言葉は、かえって神の存在を強く想起させる。光が存在しないときこそ、光を思わずにいられないのだ。
そこで、位置では無く、色について転倒を考えてみよう。紺の補色である橙が得られる。「ひるがえって明るい」ではないか。奥の壁の《太陽》に向かうように展示室の入口に立ってみる。左右の壁面に掛けられた色取り取りの小作品群(右側の壁に10点、左側の壁に4点)が陽光を浴びているかのように立ち現われる(とりわけ、《太陽》に近い右側の壁の2点は、紺の補色であるオレンジ色を背景としている)。《太陽》をインスタレーションと見れば、ムンクの《太陽》同様の世界が広がるのである。

《白昼夢 #4》(1960mm×3060mm)の白い画面には、「縄文弥生/古墳飛鳥/奈良平安鎌倉/室町桃山江戸/明治大正昭和/平成令和」という時代区分名称が黒い絵具で表わされている。令和の後に意図的に空けられた部分はもちろん未来である。作家は自ら「過去のものや、まだ発生してゐない未来のものを究極の現存として直ちに把握する」試みに、非現実的な空想(=白昼夢)と自嘲的な評価をしつつも、果敢に挑戦している。

 私は暫くの間、ちやうどいまのあなたと同じやうに、かういふ降神の試みに於きまして、その「外的」な作用を信じようとする傾きがありましたが、いまではもうそんなでもありません。外部の世界といふものは極めて広大であるには相違ありませんが、そのあらゆる星辰間の距離を以てしましても、私たちの内部の世界の立体的な次元の広さとの比較にはほとんど堪へられません。内部の世界は宇宙の広大な空間を決して必要としないほど、それ自身でほとんど無限なのであります。ですから死者とか、未来の人々とかに、もしもその滞在の場所が必要なのでしたら、かうした架空の内部の世界以上に彼等にとりまして居心地のよい誂へ向きな場所が果たしてあるでありませうか? 私にはだんだん、まるで私たちの通常の意識がピラミッドの頂点に位してゐるかのやうに思はれて参ります。私たちの内部にある――いはば私たちの下層にある――そのピラミッドの基底は完全な広がりを持つてをりますので、いよいよ深く下りていく能力があればあるほど、それだけ普遍的に私たちは、地上の、最も広い意味に於ける世界空間的な存在の、時空を超越した出来事のなかに引き込まれていくやうに存ぜられるのであります。私は極く若い時分から次のやうなことを想像しまして、自分の力の及ぶ限り、その想像の指示に従つて参りました。即ちこの意識のピラミッドのより底部の横断面に於きましては、自意識の上部の通常の頂点に於て単に時間的な「経過」として体験されるに過ぎないすべてのものの、犯し難い現存と、並存が、あの単一な存在の世界が事実として現はれるのではありますまいか、と。過去のものや、まだ発生してゐない未来のものを究極の現存として直ちに把握することの出来るやうな人物を描き出さうといふのが、既に『マルテ』を執筆してをりました当時の私の欲求でもありました。そして私は確信してをります、このやうな把握は存在の真実の状態に――仮令この状態が私たちの実生活の上でのあらゆる協定によつて却けられてをりませうとも――適応したものであることを(富士川英郎訳)

 (略)
 井筒〔引用者補記:俊彦〕は『意識と本質』において、この手紙〔引用者註:リルケ1924年8月11日付のノーラ・プルチェル=ヴィデンブルック宛〕を契機として次のように述べている。リルケの語っていることは芭蕉宣長にも通じるとしているのである。

 コトバの意味分節の力の及ばぬ「意識のピラミッド」の深層領域に開示されるもののフウィーヤを、詩人はあらためて言語化しなければならない。言いかえれば、フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない。つまり、我々がさきに見た禅の「転語」、すなわち根源的生起の場と構造的に類似した事態がここにも起る。しかも、使われるコトバは日常的言語と、表面的にはまったく同じコトバ。そこに禅者ないし詩人の言い知れぬ苦悩がある。リルケのような詩人に一種の名状し難い焦燥感があるのはそのためだ。深層体験を表層言語によって表現するというこの悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消されない。ここに異様な実存的緊張に満ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する。

 井筒が、どのような問題意識をもって、またどのような方法をもって、詩を論じ、禅を論じ、哲学を論じているか、この引用からだけでも、おおよそ分かってくる。フウィーヤというのは、15世紀イスラム哲学者ジョルジャーニーの語を井筒の著書からそのまま孫引きすれば、「いかなるものにも、そのものをまさにそのものたらしめているリアリティーがある。だが(ここで注意すべきは)このリアリティーは1つでなくて2つであるということだ。その1つは具体的、個体的なリアリティーであって、これを述語でフウィーヤという。もう1つは普遍的リアリティーで、これをマーヒーヤと呼ぶ」(言語を省き、必要なものは片仮名表記にした)という、その具体的、個体的なリアリティー、本質のことである。このフウィーヤはドゥンス・スコトゥスが「このもの性」、「これ性」と呼んだものに対応していると、井筒は説明している。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.272-274)

《ショートケーキ》(1937mm×1120mm)は明らかに禅画である。縦長の画面をわずかに黄みがかった色で平滑に塗り込め、右上の角から左右の角に向かって伸ばした明るい白の線で三角形を描き、その外心に相当する位置に赤い円を描いている。画家である作家は、深層体験を表層言語によって表現する詩人の試みに相当するものを、コトバではなくイメージを用いて探究している。ショートケーキのイメージを用いて、イチゴを表わす赤い円が「自意識の上部の通常の頂点」を、それを載せるケーキが下層に広がるピラミッドを表現している。イチゴが外心に描かれているのは、外接円を想起させるためであろう。円を介して思い出されるのは仙厓の《一円相画賛》である。「これ食ふて茶のめ」と、禅者である作家は問いかけるのだ。