可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小山真由子・佐々木成美・中嶋典宏三人展『B.C.|A.D.』

展覧会『小山真由子・佐々木成美・中嶋典宏「B.C.|A.D.」』を鑑賞しての備忘録
HIGURE 17-15 casにて、2023年11月18日~29日。

小山真由子(3点)・佐々木成美(2点)・中嶋典宏(10点)の絵画(全15点)を、古代ローマの大理石のトルソー、古代エジプトのガラスの装身具、ペルシャのセラミックの小瓶などとともに展観する企画。

エジプトの新王朝時代のガラス器の装身具、王政期から共和政期にかけてのローマの大理石のトルソーは、いずれも紀元前に制作されたミニアチュールである。それらは人間の世界に対する眼差しであり、自らを世界にどう位置付けるかという物語の断章である。

 大きなものを小さくする操作は、マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)、宇宙が家や人体と照合される場合に見られる。それらは形態的な照合というより抽象的な観念のレヴェルでの照合である。人形の家のようなミニアチュールの場合には、ともにディメンション(寸法)をもった物どうしでの相似がなりたっている。現実(模型)のなかで非現実化(意味化)することが「物」どうしの関係を通じて明らかにされる。このような縮尺の意味についてはふたつの解釈が可能である。
 ひとつはレヴィ=ストロースが美術に言及する場合の解釈である。レヴィ=ストロースは、美術はいわば縮減模型をつくることであり、縮尺すること自体のなかに美的快感が含まれるとのべるが、そういいながらかれは縮尺を想像力の問題としてよりも認識の問題として扱っている。縮尺模型では全体の認識が部分の認識に先立ち、現実(の寸法)の世界での認識(部分から全体へ向う認識)は逆転する。人間は認識する主体として確立されるが、「子供のもつ人形はもはや敵でもライバルでも話し相手でもない。人形のなかで、また人形によって、人間が主体とかわる」のである。
 もうひとつはバシュラールの解釈である。かれはこの縮減をイメージにおける現実の非現実化とみなしている。そこは想像力で人間がはいりこむ世界になる。巧みに世界を縮小することは、確実に世界を所有することであり、それは詩的言語の能力である。かれがミニアチュールに捧げた一章のなかであげたヘルマン・ヘッセの文章はこのような夢想をもっとも美しく描いた例であろう。その物語ではひとりの囚人が牢獄の壁に小さな記者が珍練るに入っていく風景を描いた。あざ笑う看守のまえで、囚人はからだを小さくして汽車にのると、汽車は動きだして闇に消えていった。やがて残ったけむりも消え、絵も消え、かれの存在も永久に消え去った。
 レヴィ=ストロースは縮小された世界に、認識論的な関係を見、バシュラールはそこに夢みることの自由と欲望の象徴的充足を読みとっていたが、こうした解釈のどちらが正しいかが問題なのではない。いずれの場合でも、解釈とは世界が人間化され人間が世界化されるそれぞれ特殊な方向づけにほかならない。われわれはつねになんらかの意味での世界の解釈のなかに生きている。ミニアチュールとはまずひとつの生けるまなざし、世界を隠喩化する視線あるいはその痕跡を意味する。この隠喩をうみだす視線こそ、人間という存在を世界にくりひろげ、世界を人間のなかに現象させる最初のきっかけである。(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008/p.52-54)

佐々木成美《ה》は、主に褐色のオレンジの伸びやかな線で、頭部の無い女性の身体を左から表わした作品。右膝を曲げ、左膝を字面に着いた姿勢は立ち上がろうとしているかのようだ。下書きの線が残され、胸と腹の波線が繰り返されることからも動きが感じられる。背後に添えられた紫は身体を太陽として黎明を演出するようだ。画題の"ה(hē)"はヘブライ語で神を表わす言葉でもあり、女性は太陽神かもしれない。ならば頭部の描かれていないのは、そのまぶしさ故であろうか。あるいは、。可視的な太陽像「へーリオス」と精神的な太陽像「アポローン」との2神――換言すれば、神に対する眼差しと、神の眼差しと――を1枚の画布に落とし込むためかもしれない。

 古代ギリシャの宗教的な経験が、見ることをこそ、その根幹に据えていたとすれば、2つの最も重要な局面――ケレーニイは「2つの頂点」と呼んでいる――をもつことになる。第一の局面は、神々と対面し、神々を見ることである。ギリシア語の「神 theós」は、「見ること theória」という述語的な意味を含んでいる。この語をラテン語にそおまま映せば、「見よ神を ecce deus」となる。すると、われわれは直ちに次のことに気づく。これとちょうど対応する、キリスト教側の表現があることに、である。無論、「それは、ローマ総督ピラトが、ユダヤ人群衆を前にして、イエスを指していった言葉、「見よ(この)人を ecce homo」である。ギリシアにおいては、見られるべき対象は神として措定されており、キリスト教では、それは人間である、もう少し繊細に言い換えれば、見ることの内に宿っている欲望のベクトルが互いに逆向きになっている、と捉えるべきであろう。キリスト教においては、神(キリスト)であるべきものが人間として提示される。ベクトルは、神から人間へと走っている。逆に、ギリシアにおいては、視線の方向性は、人間から神へと向かっている。(略)
 第二の重要局面は、神々が見る、あるいは神々のように見る、ということである。ケレーニイによれば、「〈観る〉ことを許された者は、〈テオス(神)よ!〉と呼びかける権利があ」った。他の多くの地域と同様に、古代ギリシアにおいても、太陽が神格化されている。へーリオスとアポローンが、ともに太陽神である。前者が可視的な太陽像に、後者が精神的な太陽像に、それぞれ対応している。ホメーロス叙事詩は、その太陽を、「すべてを見、聞くもの」と呼んでいる。さらに『イーリアス』では、端的に、「テオン・オビス(神々の眼)」という語が使われている。
 このように、古代ギリシアにあって、宗教的な経験の2つの極で神々には異なった役割が配分される。神々は一方では視覚の対象であり、他方では主体である。両者はどのように関係しているのか。(略)
 (略)古代ギリシアにおいては、見ること・観ることと知ることとは、深く結びついていた。知ることは、観ることに基礎づけられており、ときにほとんど同じものでさえある。「知る eidénai」という営みに相関した対象は、「形相 eîdos」である。形相は、プラトンイデアと同じ意味だが、本来は、視覚的な対象(要するに「姿かたち」)を意味している。ケレーニイは、ギリシア人にとって、見る対象も知る対象もともに「ゲシュタルト」であるのは当然であり、知ることと見ることとの間のこうした繋がりは「何もギリシア精神史のプリミティヴな初期段階などを示しているわけではなく、少なくともアリストテレスについても依然として妥当するギリシア特有のものであった」と述べている。知られた対象も、見られた対象と同様に現前するのである。
 だが、他方で、知ることと見ること、あるいは感覚すること一般とが完全に同一であるとすれば、誤りと真理との区別もなくなってしまう。両者の間には、明確な区別が設けられていなくてはならない。真に知るべき対象は、イデアである。つまり、それは、無時間的なものであって本来、目には見えないはずだ。ソクラテスプラトンにおいては、真理は永遠の過去の想起という形式で見出されるのであった。ケレーニイは、極論すれば、ギリシア人にとって、学問 epistēmeは神々にこそ属していた、と論じている。だから、学問は、ギリシア人にとって敬虔さの表現である。少なくとも、学問を最大限に所有しているものは、神、ゼウスであった。といううことは、通常の「エイデナイ(知る)」を超える強力な知が想定されているということになるだろう。そのような強力な知を意味する語が「noeîn(思惟する)」である。「思惟する」能力が「nûs(知性・叡知)」である。
 思惟することと見ること、知性と視覚、両者はどのように違い、どう関係しているのだろうか。思惟することは、確かに、見ること異常のものではあるが、しかし、見ることを否定するものではなく、依然として見ることの延長上にあると捉えるべきであろう。「思惟する」は、「見る」に欠けているおのを補い、「見る」を真に完成させるものだからである。第一に、眼は、受容するだけだが、ヌースは能動的である。つまり、眼で見るときには、世界にすでにあるものを受け取るという態勢がが基礎であるのに対して、ヌースは、「思惟する」ことを通じて、世界に積極的に向かっていくのだ。第二に、見ることにつきまとう距離の限界を超えるのが、思惟することである。見るということは、無論、離れたところにある対象を見ることではあるが、しかし、あまりに離れたものはもはや視野に入らない。見ることによって現前させるためには、対象は十分に近くなくてはならない。それに対して、思惟することは、遠方にあるものを映し出すことを可能にする。ホメーロス叙事詩では、旅人は、かつて行ったことがあり、もう1度訪問したいと願う所に、思惟の力によって行くことができる。ヌースは、見ることの距離的な限定性を超えて、それが関わりうる対象の範囲を普遍化する能力といってよいだろう。言い換えれば、ヌースは、対象を見える範囲にあるかのように、「間近に引き寄せる」能力である。
 このように、「思惟する」は、「見る」の内に萌芽的にはありながら、まだ不十分であった契機を補完することで得られる。それをなしうる能力、すなわちヌースは、究極的には神にこそ属すると考えられていた。(略)先に、見ることをめぐるギリシアの宗教的な経験は、2つの頂点、2つの重要局面をもつ、と述べた。「神々を見る」と「神々が見る」である。後者の延長上に「思惟する」があるのではないか。つまり「神々が見る」その「見方」こそが、思惟することなのではないか。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 1 古代篇』講談社講談社文芸文庫〕/2022/p.287-291)

芸術作品とは、「見ることの距離的な限定性を超えて」「対象を見える範囲にあるかのように、『間近に引き寄せる』」ミニアチュールと言える。

小山真由子《New Minimal paintings》の薄い水色の画面には、モコモコとした形の濃い水色の面が重ねられ、さらにエメラルドグリーンのもこもことした四周の形が配される。"a"や"r"の赤銅の文字が3つずつ散らされ、杏仁形の画布の切れ端を連ねたものや、赤銅色に着彩されたアーモンドが画面に貼り付けられる。薄い水色は空、もこもことした形は雲であり、文字は"Ra(رع)"と組み合わせれば太陽神となる。佐々木成美《ה》とともに太陽神を表現していたのである。また、杏仁形及びアーモンドは眼であり、神に対する眼差しないし神の眼差しの点でも《ה》と共通する。
小山真由子《New Minimal paintings》の向かいに展示されるのは、中嶋典宏《猫目》である。三角形に近い形状にした木枠(木材)に主にオレンジ色に着彩したキャンヴァス
を貼り付けてある。その中央には穴が穿たれ、着彩した木材などが覗いている。タイトルから猫の女神バステト(باستت)とと考えられる。太陽神ラーの娘(あるいは妻)である。そして、作品の中心は穴によって表わされた眼(目)である。
小山真由子《New Minimal paintings》と中嶋典宏《猫目》とともに会場の最奥に飾られるのは、佐々木成美《Anna》である。主にオレンジ色が支配する画面には上部に円のようなものが表わされる。取り分け目を引くのは、"§"のような形のセラミックが画面の両端に取り付けられていることだ。"S"の連続捉えれば、複数の"sun"ということになる。太陽(sun)が太陽神なら、それは目でもありうる。

 〔引用者補記:見ることをめぐるギリシアの宗教的な経験がもつ〕2つの頂点の関係を見定めるには、もう1つの別の現象「アイドース aidós」を取り上げるほうがよい。実際、ギリシア的な宗教的な態度を代表する現象として、ケレーニイが最も重視し、熱心に解説しているのは、ほかならぬこの「アイドース」である。アイドースとは、「羞恥」のことであり、動詞で言い表せば「aideîsthai(恥入る)」となる。ケレーニイによれば、――古代ギリシアにおいては――宗教的な態度の原点には、アイドース(羞恥)の感情がある。(略)
 アイドースのありようをよく示す状況として、ケレーニイは、ホメーロスの『イーリアス』から次のような場面を引いている。ヘクトールが、アキレスとの決闘のために、トロイアの城外で一人アキレスを待っているときであった。ヘクトールの老いた両親プリアモスとヘカベーは、息子ヘクト-ルをトロイア城内に呼び戻そうとする。母ヘカベーは、乳房をむき出しにして、涙ながらに、ヘクトールに懇願する。

 〈わが子ヘクトールよ、これに〉と、彼女は自分の乳房を示していう〈おんみは《アイドース》を感じてください。そしておまえに乳を飲ませてあげた私のことを憐れと思ってください。愛する子よ、これを思い出してください。そして城壁の内部に止まったまま敵を防いでください〉。(中略)ヘクトールは母の乳房、および乳房が意味しているすべてのものと対立するにいたる。このことが、彼の心中に〈アイドース〉を呼びsますにちがいないのである。

ここで、ヘカベーは、息子ヘクトールの内に、アイドースの感情を惹き起こし、さらにこれを両親へのセバス(敬意)に転換しているかのようである。つまり、親や神への「畏敬」のような、いかにも宗教的とわれわれが一般に見なしている感情を、さらに原初的な層に向けて遡ると、「アイドース(羞恥)」が見出される、というのがケレーニイの洞察である。『イーリアス』のこの場面では、ヘカベーは、まず乳房を露出させることで自ら羞恥を覚え、相手(ヘクトール)からの感情移入を利用して、この羞恥を、言わば、ヘクトールに伝染させているのである。
 羞恥とは何であろうか。どうして、これが、宗教的な感情の原点となりうるのだろうか。羞恥は、精妙で複雑な現象である。ここでは、ケレーニイが留意しているアスペクトにだけ注目しておこう。たとえば、われわれは、裸でいることに恥ずかしさを覚える。「アイドース」には、「性器」の意味も含まれている。ヘカベーが感じているのも、裸体の羞恥である。〈私〉が裸でいることが恥ずかしいのは、〈私〉(の身体)を捉えている〈他者〉の視線を、〈私〉自身が直覚しているからである。〈私〉が〈他者〉を見る視線と、逆に外部の〈他者〉が〈私〉を捉える視線との間の対照的な双対性が、羞恥を感じるための必要条件になっているのだ。ケレーニイ自身は、次のように述べている。

 〈セバス(畏怖)〉と同じことで、〈アイドース〉にも根底に観るという経験があったが、これこそギリシア様式にふさわしいことであった。ただ、羞恥感を感じしている人の方が、〈セバス(畏怖)〉を経験してそれを尊敬している人よりも、いっそう受動的である。羞恥を感ずる相手に対して、さらに尊敬をも示すというのであれば――尊敬の要素もこの現象〔セバス(畏怖)〕には含まれている――観る対象は彼自身なのであり、羞恥している彼が観られていることになる。この場合、彼は観る者ではなくて観られる者である。

 このように、見ること(あるいは観ること)が同時に見られること(観られること)でもある。それが羞恥を感じるための前提である。この関係は、かつて、イエスの病気治療の活動との関連で、触覚において見出した構成とまったく同型的である。触れることは(〈他者〉に)触れられることでもある。この二重性を、われわれは「求心化‐遠心化作用」なる概念で分析したのであった。それは、一方では、「この身体」であるところの〈私〉に求心化された相で現出する(〈私〉が触れている)。と同時に、他方で、それは、〈他者〉への遠心化された相でも現出している(〈私〉が触れられている)。両者は別のことではなく、厳密に同一事である。これと同じ形式の関係が視覚をめぐって成立しているときに、アイドースが生まれてうる。
 しかし、求心化‐遠心化作用の二重性は、しばしば、主観的な意識の後景に退いてしまう。たとえば、〈私〉が、「それ」をじくりと触り、十分に享受しようとしていると、気がついたときには、〈私〉自身が、「それ」の受動的な対象であったという現実は感受されなくなる。すなわち、遠心化作用は、もはや現出しない。エマニュエル・レヴィナスが、愛撫の触診への頽落と呼んでいる自体は、われわれの用語を用いるならば、触覚の領域における、遠心化作用の排除である。だが、求心化‐遠心化作用の二重性の、こうした末梢は、触覚においてよりも、視覚において生じやすい。視覚は、対象を、距離をおいて捉えるからである。見ることは、同時に見られること、見られうることである。顔を見ているとき、あるいは対象に「表情」を見ているとき、われわれは、jこうした二重性を直覚している。だが、対象を冷静に「観察」しているときには、その対象は、もはや生ける〈他者〉ではありえない。
 キリスト教は、イエスの治療の物語に集約されるような触覚的な寓話によって、宗教的な経験の原点を表現しようとした。それに対して、ギリシアの場合には、宗教的な起源は、アイドースの視覚的な体験にある。触覚と視覚の今述べたような相違を考慮にいれるならば、次のように言えるのではないか。どちらにおいても、求心化‐遠心化作用の双対関係が、宗教性がそこから発生するような力の源になっているのだが、その力の強度は、キリスト教において、(ギリシアより)大きい、と。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 1 古代篇』講談社講談社文芸文庫〕/2022/p.292-296)

佐々木成美《Anna》は、《ה》でヘブライ文字のタイトルが用いられていることに鑑みれば、"Anna"の語源である、ヘブライ語の"Hannah"(恵み)を想起させる。しかしながら、宗教的な意識の淵源にあるアイドース(羞恥)を踏まえれば、太陽、眼球とともに"Anna"は「穴」の音写であり、性器(アイドース)と解すべきではなかろうか。羞恥を惹起するメカニズム、見ると同時に見られるという感覚が、神の存在を呼び起こすのである。「その力の強度は、キリスト教において、(ギリシアより)大きい」。B.C.の視覚だけの世界から、A.D.の視覚と触覚の世界へ。佐々木成美《Anna》が画布にセラミックを取り付けるのは、小山真由子《New Minimal paintings》が画布に画布の切れ端やアーモンドを取り付けるのは、中嶋典宏が、ペルシャの瑠璃色の小瓶と並べ、絵画(平面)をむしろ手に取って楽しむ小物(立体)のように展示するのは、視覚と触覚のキリスト教(あるいはA.D.)的世界を描くためであったのだ。