可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大場さや個展『透地』

展覧会『大場さや「透地(とうち) - transparent ground」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2023年11月27日~12月2日。

主にガラスを素材として地表を記録する作品で構成される、大場さやの個展。

《透明の地面》は、地面を「ホールケーキ」のような高さ十数センチの高さの円柱状に掘り出して型を取り、白い半透明のガラス器に仕立てたもの。展覧会タイトル「透地(とうち)」は、その音から地球を裏返す「倒置」が意識されているのは疑いない。すなわち、関根伸夫の《位相‐大地 1》に連なる作品と言える。高さ2.7mの《位相‐大地 1》に比べればスケールによるインパクトは劣ってしまうが、それには理由がある。土(腐植土)の形成は10センチ程度の深さまでで行われるということである。

 土壌をつくりだすのは生命である。土壌を理解したいのなら、その生きた側面に注目することから始めなければならない。じっさい、生命の存在しない場所、たとえば極寒あるいは灼熱の沙漠に土壌は存在せず、硬い岩石や、砂のような未固化の岩石があるだけである。われわれをとりまく諸惑星の表面には大気があり、もしかすると水もあるかもしれないが、現時点で生命の痕跡は発見されておらず、土壌も存在しない。このことは、土壌といううものが有機物たる腐植土と無機物たる粘土からできているという事実にかかわっている。土壌とは有機物と無機物の複合体だといわれるが、有機物をつくりだすためには生命が必要である。したがって、土壌は地球上にしか存在しない、なぜならこれまでのところ、生命を収容でいる惑星は地球だけということになっているのだから。
 そもそも面白いのは、古代人がわれわれの惑星を「大地(=地球)」と名付けたことである。唯物論的な現代人のように純粋に定量的なアプローチをとっていたなら、彼らは地球を「大気」と呼んだろう。というのも大気の層は70キロメートル程度〔原文ママ〕の厚みがあるが、土壌は平均で1メートル程〔原文ママ〕の厚みしかないからである。「大洋」と呼ぶこともできただろう。海は地表の75パーセントをおおているのだから。にもかかわらず古代人たちは地球を「大地」と呼んだのであり、それは正しかった。太陽系の惑星のうち、土壌を有するのは唯一地球だけだからである。
 したがって土壌とは、炭素の世界である腐植土と、炭素の世界である腐植土と、シリカの世界である粘土とが融合したけっかである。だが、かくも異質な二世界が、いかにして化学の平面で結びつくのだろうか? (略)だがじっさいには、生命と気候の作用を受けて、岩石と落葉落枝層とが互いにコロイド状の物質へ、すなわち、電荷を帯びた複合体へと変化するのである。それなら反発が生じるはずだが、岩石が粘土へと分解し、落葉落枝層が腐植土へと分解するさいに、土壌水のなかで二価の陽イオンであるカルシウム、マグネシウム、鉄、アルミニウムが放出され、これらが粘土と腐植土のあいだの橋渡しの役割を果すことになる。
 (略)
 あらゆる土壌は生命の作用を受けて形成されることが理解されたのはごく最近であり、1980年代末まで、粘土生成の仕組みは謎のままだった。植物の根や微生物が岩石を攻撃して「食べる」ということ、すなわちその発育増殖に必要なカルシウム・マグネシウムカリウム・硫黄・リンなどを摂取することを証明したのは、オーストラリアとカナダの研究チームである。岩石の主成分はシリカ・鉄・アルミニウムであるが、植物と微生物は生体にとって微量元素である三要素をごくわずかに利用するだけである。植物と微生物がみずからの発育増殖のために必要なシリカ・鉄・アルミニウムを摂取するにしたがって、これらの要素は地中の水分のなかに蓄積されていき、一定の濃度に達するとケイ酸アルミニウムとケイ酸鉄への結晶化がはじまる。これが粘土である。(略)腐植土の形成においては、地表に棲息する動物群によって囓られたり粉々にされたりした植物の残骸が原料となる。ついで、それらの動物群の糞は菌類のえじきとなるが、植物のリグニンを分解し、腐植土に変えることができる有機体は唯一菌類のみである。粘土と同様、腐植土もまた気候・土壌のタイプ・植生に応じて性質はまちまちである。
 (略)
 土壌が厚みを増すにしたがって植物相は変化していく。まずは地衣類や蘚類が岩石の表面にあらわれ、粘土の出現とともに草が、ついで低木があらわれる。年間降雨量が500ミリを超えれば、樹木が生えてくる。こうした生命のすべてが土壌の材料となる物質を分解し、掘りかえすのであり、この物質は移行あるいは堆積し、「土壌層位」と呼ばれる層を形成していく。土壌は、地表から腐植土の生成によって、上下「二方向」からはぐくまれていく。森こそははしかにもっとも持続可能な生物学的モデルである。(略)
 (略)毎年、森が地面に落とす枯葉や枯枝によって落葉落枝層が形成され、動物たちの糞がそこに加わる。この落葉落枝層を分解するのは地表に棲息する表生動物である。そのなかには、落葉の柔らかい部分をむしばみぼろぼろにするトビムシ類もふくまれる。ついで登場するのは葉脈に喰らいつくダニ類であり、最後に多足類やワラジムシ類がもっとも硬い要素をこなごなにする。こうしたすべての表生動物が落葉落枝層を食べていくことで小さな糞粒が積み重なった状態になり、きわめて通気性がよく柔らかな表土がつくられる。このような表土こし、われわれが茂みのなかでキノコ狩りをするさい、まるでカーペットの上の歩いているような気分にさせるものであるが、このキノコ類がついで糞粒を養分として出現し、それを腐植土に変えるのである。キノコ類はすべて好気菌であるがゆえに、腐植土形成のためには酸素がなくてはならない。かくしてこの自然の作用から分かるのは、土を深々と掘り起こすトラクターとは対照的に、10センチよりも深い地中に有機物を埋めてはならないということである。(リディア&クロード・ブルギニョン〔谷口清彦〕「土壌の豊かさと持続可能な農業における粘土の役割」エルメス財団編『Savoir & Faire 土』岩波書店/2023/p.48-54)

腐植土の形成には不可欠な菌類は好気性のため、10センチ程度の深さまででしか働かない。《透明の地面》はそのことを踏まえ、無機物であるガラスにより、土を有機物なき世界へと転換してしまったのである。作品化は、恰もメドゥーサによる石化の作用に比せられる。

 (略)メドゥーサの眼を見ると、石になるという。そのかぎりで、これは人間の自然化に関わる。世界の秩序が、最下層の鉱物から順次、植物、動物、人間(そして神)へと上昇していく層の重なりとして考えられるなら、石化=鉱物化とは、存在の最上層から最下層への突然の下降を意味することになる。ここで自然化は、ちょうどマックス・エルンストのある種の作品のように、植物=鉱物化として現象する。これは、たしかに、高さから低さへの、上から下への方向性に関わる物語なのだ。(谷川渥『鏡と皮膚』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2001/p.85)

《透明の地面》は台の上に設置されることで、地面から持ち上げられたことが示される。石化の「人間の自然化」のメタファーを、「高さから低さへの、上から下への方向性」から、低さから高さへの、下から上への方向性として倒置しているとも言える。
《透明の地面》が大地の表皮を剥ぎ取っている点に着目すれば、実は芸術制作そのもののメタファーとも考えられる。

 (略)ミケランジェロは、その畢生の大作《最後の審判》――システィナ礼拝堂の面積200平方メートルの壁面に391人の人物たちの蝟集するというあの壮大な空間のなかに、ひとつの奇妙なシロモノを描きこんだ。それは、聖バルトロメオが手にする人間の抜け殻のようなものなのだが、その顔がどうやらミケランジェロ自身の自画像になっているらしいのである。1925年にイタリアの学者フランチェスコ・カーヴァがそのことを指摘して以来、これはほぼ定説になっているが、これは間違いのないところだろう。バルトロメオは、アルメニアでの説教を終えて帰国の途次、異教徒につかまり、その皮膚を剥がれたと伝えられる殉教者だが、そのことを示すために絵にはみずからその皮膚を手にしている姿で描かれることがある。ミケランジェロは聖バルトロメオの右手に皮剥ぎに使われたナイフをもたせ、それを審判者キリストのほうに威嚇的に振り上げさせ、そして左手に抜け殻をもたせて、それにあえて自分の顔を与えているわけである。(略)
 (略)
 聖バルトロメオの抜け殻においては、キリスト教の殉教の物語とギリシア神話の皮剥ぎの物語とが重ね合わされている。そのことはまたとりもなおさず、救済と地獄墜ちのテーマと、みずからを「神のごとき芸術家」とみなす人間のヒュブリス(倨傲)とそれに対する神の罰のテーマと、さらに芸術創造に不可避的な自己分裂のテーマとが重ね合わされているということでもある。ミケランジェロは、あの抜け殻に自分の顔を与えることでこれを自分の署名とすると同時に、この大作を芸術上の遺言として制作したにちがいない。ミケランジェロは、この壁画が画家自身の皮膚であることを、その晩年に全身全霊を打ちこんで制作するあいだに自分自身によって生きたまま皮剝ぎされた彼の魂の皮膚であることを暗示しているのだ。そこにはまた、いかに倨傲にみえようとも、神に自分の皮膚を差し出しながら誇りを失わぬこの「神のごとき」芸術家の矜持がある。救済か地獄墜ちかは知らず、これこそがミケランジェロ自身のまぎれもない殉教なのだ。(谷川渥『鏡と皮膚』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2001/p.153-161)

《透明の地面》は大地を天に向かって転移させることで、描かれるべき白紙の壁面=キャンヴァスを仕立てているのではなかろうか。芸術家たちの営為を、皮剝ぎのメタファーによってミケランジェロまで繋いでみせるのである。