可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 夏目麻麦個展『誤差熱』

展覧会『夏目麻麦「誤差熱」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2023年11月18日~12月2日。

油彩画7点、パステル画1点、版画「minaimi」シリーズ10点で構成される、夏目麻麦の個展。

人物をモティーフとした作品に以下3点がある。
《エキス》(333mm×242mm)は、女性の顔を正面から描いた作品。右に僅かに傾けている顔には、光が強く当たり白飛びしている。その白い顔の周囲を飾るのは燃え立つようにカールした髪だ。
《テンポ-G》(455mm×530mm)は、白っぽいピンクの画面に、ベリーショートの金髪の女性の胸像。右に首を伸ばし、顎に右手を置く姿勢をとる彼女を左前から捉えている。目や口元の部分が塗り潰されるように表現され、彼女の顔は判然としない。
《call》(1167mm×910mm)は、2人の女性が坐る姿を、コーラルピンクの背景にイメージが溶け出していくように表わした作品。胸部と下半身(スカート)については色面として大雑把に描かれ、髪・顔など頭部の表現はそれらに比べると描き込まれているが、敢て明確なイメージとならないよう工夫されている。

植物を描いた作品は次の2点である。
《低木》(910mm×1167mm)は、道の脇にある傾斜地に植わっている植物を描いた作品。ペールオレンジの空を背に、草は枯れて背の低い木は裸木となっているが、コルディリネのような植物が勢いよく葉を伸ばしている。
《屹立》(530mm×455mm)は、オイルパステルにより1本の木を描いた作品。真っ直ぐに伸びる幹に比して大きな樹冠は、左側に傾いている。縦方向の描線による雨のような効果もあり、木が降り籠められて項垂れているようだ。

以下2点には構造物が描かれている。
《建設》(1303mm×970mm)は、造成地に建設される建物を足場とともに描いた作品。淡い暗紫色の画面下部には土が露出し、奥側に立つ建物の土台部分は造成されていることが擁壁から分かる。陸屋根の平屋は黄緑の外壁を持つ。2面のうち1面の足場用鋼管は夕陽(?)によりピンクに輝き、黒いシートが拡げられずに縛りつけてある。建物は1層だが、建地と足場板は3階建ての高さにまで組み上がっている。否、それ以上の高さにまで続いているようだ。背後の足場用鋼管は水平方向にも伸びているように見える。
《テンポ-P》(455mm×530mm)は、走行中の自動車のフロントガラスから捉えた自動車道の景観。左右に聳えるモスグリーンの遮音壁は画面中央外題に向かって続いている。壁の線が漫画の集中線のように働き、自動車が道の先へと吸い込まれるようで、溶けるような筆致と相俟って、画面に疾走感が生まれている。壁面から覗く植栽の緑の他、火災のようにも見える黒と朱の流体は、火の玉のような照明などと相俟って、どこか不穏な雰囲気を醸し出す。

本展のメインヴィジュアルに採用されいてるのは《ヴォイス》(333mm×242mm)である。わずかに赤味のあるクリーム色と黄緑の画面に暗色の流体を描いた作品。例えば、草地のコルディリネなどをモティーフとした作品かもしれないが、判然としない。また、本作品は展覧会のメインヴィジュアルに採用されているが、なぜか展示室の隅の奥まった場所に隠れるように飾られている。ひょっとしたらタイトル《ヴォイス》は、態(voice)を表わしているのかもしれない。作品には、メインヴィジュアルとして打ち出す能動態(active voice)としての性格と、その存在が見付けられることを待って潜む受動態(passive voice)的性格とが併せ持たされているからだ。ならば、作品のイメージも、積極的に風景を表現する能動態的性格と、何が描かれているかを鑑賞者に探らせる受動態的性格とが共存していると言えまいか。

 メルロ=ポンティの著述を読むときにだれもが味わう、あの思考スタイルに特有の〈うねり〉について、かつてJ.B.ポンタリスがつぎのように書いたことがある。

 メルロ=ポンティの思考は、対となったもろもろの対立項、なかでもとくに即自‐対自、現実的‐創造的、能動的‐受動的といったサルトル流の二項対立に支えられているが、これは、そうした二項対立のうちに必然的ではあるが誤った思考のスタート・ラインを見いだし、不可避のものとされるこうした二者択一に意義を申し立てながら、綜合への共生を阻止するためである。(J.B.Pontalis, "Présence, entre les signes, absenc", L'arc, 1971, p75)

 (略)
 さて、世界について、あるいは世界の経験について反省しようというときに、われわれのまえにこのように2つの対立的な解釈図式がそれこそ両立不可能な仕方で設置されてれいるとする。そのとき、メルロ=ポンティの思考は、そうした解釈の二項的対立を抽象的な対立とみなし、それらを別の第三項のうちに回収・止揚するという論理的な「綜合」の方法はとらない。やはりそうした対立の抽象性をきっかけとしながらも、かれの思考はつねに、対立するそれぞれの解釈とそこから浮かび上がってくる現象の光景を丹念に参照しながら、そうした解釈の対立を呼びこんだ現象の内的構造のなかに、深く分け入ってゆく。
 より具体的なもの、より根源的なものを求めて、対立する解釈のあいだを行ったり来たりするこの「不断に繰り返される往復運動」は、「つねに分裂し、つねに自分自身に反対している」、そんな対立を秘めたわれわれ自身の不均衡な存在のなかに、どこまでもとどまり続けることを求めたあのパスカルの問いのパトスを彷彿とさせる。「われわれの頭のなかには、その一方にさわると、その反対のほうにもさわるようにしくまれた発条があるのではないかと思われる」、とかれは紙片に書きつけたのだった。「正より反へのたえざる転換」、あるいは廃棄不可能な「二重性」、これはパスカルにあっての問いの特性であると同時に、人間という存在そのものの構造でもあった。
 おなじことがそのまま、メルロ=ポンティの思考についてもいえるように思われる。かれのあのうねるような思考のスタイル、それは世界という存在の生成スタイルそのものが要求しているものではないのだろうか。はじめに「両義性」と規定され、のちに「可逆性」ないしは「転換可能性」として主題歌された存在様式のことである。

 可逆性〔リヴァーシブルであるということ〕……裏返しになった手袋の指……ひとりの目撃者が表裏両方のがわにまわって見る必要はない。わたしが一方のがわで手袋の裏が表に密着しているのを見るだけで、わたしが一方をとおして他方に触れるだけで十分である(領野の1点ないし1面の二重の「表現」)、交叉配列とは、この可逆性のことなのである。……
 あたえられたただ1つの軸……手袋の指の先は無である……。しかし、それはひとが裏返すことのできる無であり、そのときひとがそこにもろもろの無を見ることになる無なのである。……否定的なものが真に存在するただ1つの「場」は襞であり、つまり内と外とがたがいに密着しているところ、裏返し点である。

 遺稿『見えるもの見えないもの』で駆使される〈可逆性〉という概念を引照するのであれば、本来なら、「触れるものと触れられるものとの可逆性」といった典型的な表現がみられる箇所をあげるべきであろうが、あえてこの謎めいた表現例、「メルロ=ポンティの手袋」としてよく知られている部分をとりあげたのは、この「手袋」のなかに、より正確にはこの手袋のレヴェルシビリテ(反転可能性)そのもののなかにメルロ=ポンティの晩年の思索の軸となるような主要概念が興味深いかたちで収斂しているからである。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.250-253)

「より具体的なもの、より根源的なものを求めて、対立する解釈のあいだを行ったり来たりするこの『不断に繰り返される往復運動』」は、誤差と言えるような僅かな熱エネルギーによって生み出されるものなのかもしれない。

《ヴォイス》はまた、具象的な油彩画・パステル画と抽象的な版画「minaimi」シリーズとを接続する役目を担っている。