可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『水路から柔い空へ』

展覧会『トーキョーアーツアンドスペースレジデンス 2022 成果発表展 水路から柔い空へ』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2022年7月9日~8月14日。

国内クリエーター制作交流プログラムでTOKASレジデンシーに滞在した黒田大スケ(1階SPACE A)、リサーチ・レジデンス・プログラムでTOKASレジデンシーに滞在した前谷開(2階STORAGE及びSPACE Bの手前側)、二国間交流事業プログラムでベルリンからオンラインでTOKASスタッフと協働したルーベン・デルス(Rubén D’HERS)(2階STORAGE及びSPACE Bの奥側)、二国間交流事業プログラムでヘルシンキに滞在した上村洋一(3階SPACE C・SPACE D)の4人の作家を紹介する企画。

彫刻を探究する黒田大スケは、映像作品「彫刻家たちの為のプラクティス」シリーズにおいて、大熊氏廣、高村光雲、藤田文蔵、後藤定行、清水多嘉示の「イタコ」として、彫刻家ごとに別の動物を鼻から口にかけてペイントし、暗闇の中で彼らの言葉を伝える。ニューヨークの自由の女神像に匹敵する巨大なマッカーサー銅像浜離宮に建設する計画があったことを題材にした、彫刻家たちのオンライン・ミーティングを描いた映像作品《マッカーサー銅像ミーティング》は、スクリーン裏側の机に設置されたPCで、鑑賞者も会議に参加している感覚で鑑賞できる。

「撮影する側と、撮影される側の非対称な関係」に問題意識を持って制作する前谷開は、映像作品《Scape》において、自らの身体をスクリーンとして、自ら撮影した写真を投影している。波と風の音に包まれる夜の海岸では、作家の裸体とその背後の樹木とは、かそけき光で一体化している。身体に投影される写真の樹木は、作家の撮影の被写体であり、作家によって見られるものであったが、作家の身体が被写体を映し出すスクリーンとなることで、恰も作家が被写体にとっての鏡であるかのように機能し、被写体もまた作家を見つめていたことが了解される。

 触れるというのは、触れるものではない触れられるものとその隔たりのなかで、はじめてそれとして生起する。その触れるものが触れられるものによって触れられるというのは、触れるものが触れられるもののあいだにい位置をもつということである。ということは触れるものはつねに同時に触れられるものであるということである。触れられるものどうしの触れ合いとして触覚は起こるわけだ。いいかえると、触れるということは、触れるものが触れられるものであるということを裏面としてつわけで、そのかぎりで可逆性が触れることを可能にしているのである。
 おなじことは見ることについてもいえる。触れるものが、触れられるものであるということを裏面としてもつように、見るものは見えるものであるということを裏面にもつ。
 このように、あるものが、折り返された事態をみずからの裏面として含みもつこと、いいかえると、触れるものが触れられるものであり、見るものが見えるものであるといったこの折り重なりの出来事、それがメルロ=ポンティのいう〈肉〉である。〈肉〉とはこのように感じるものが感じられるものであることであるから、したがってまた「感じられること」そのことであるともいわれるわけである。
 こうした〈肉〉の現象は、さまざまの感覚のあいだでも起こる。物に触れている自分の右手に左手が触れるのを見るというばあいとか、からだでリズムをとりながら聴くばあいとかが、たとえばそうである。「見えるものはすべて触れられる物のなかから切り取られるのだし、触覚的存在はすべてなんらかの仕方で可視性へと約束されており、そして触れられうるものと触れるものとのあいだにだけではなく、触れられうるものとそれに象嵌された見えるものとのあいだにも蚕食と跨ぎ越しがある。……触れられるものと見えるものとのあいだには、たがいに二重の交叉した帰属の関係がある」〔引用者補記:『見えるものと見えないもの』滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1989年、186頁〕。
 このように諸感覚はたがいに侵蝕しあいながら、たがいのうちに記入されあるのである(『知覚の現象学』では、「諸感覚はたがいに交流する」という言い方で、諸感覚の相互感覚的な構造に言及されていた)。
 このように考えると、物的対象はこうしてそれじたいとして即自的に存在するのではなく、
「わたし肉の秘儀から発せられた空間性と時間性の光の行きついたはてに存在する」にすぎないことになる。あるいは物の堅固さも、対象それじたいのそれではなく、むしろ「わたしがさまざまの物のあいだにいて、物どうしが感覚をそなえた物としてのわたしを介して交流しあうかぎりで、わたしによって内側から体験される」ということになる〔引用者補記:『見えるものと見えないもの』滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1989年、159頁〕。
 この見るものと見られるものとの、感じるものと感じられるものとの反転と、諸感覚の交叉が、世界に奥行きと厚みをもたらす。〈肉〉は裏をもった表として存在するのであるから、それが物が見えない底や背面をもつということ、そしてたがいに影になったりぶつかったりする、そういう奥行きのある空間が開くということを可能にする。
 (略)
 見る身体と見られる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開déhiscence)」とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである〔引用者補記:『見えるものと見えないもの』滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1989年、171頁〕。とすれば、見るのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。
 これはわれわれにとって、まったくなじみのない議論ではない。『知覚の現象学』では「ひとがわたしにおいて知覚する」というかたちで、知覚の匿名性が問題とされた。見られるものが見るという反転はいわれてなかったが、わたしが見るよりも「もっと古い可視性」が問題にされていた。『シーニュ』では「空間自身がわたしの身体をつらぬいて自己を感じる」といわれた。が、この遺稿群では、「知覚するのはわれわれではない。物があそこで自分を知覚するのである」とまで表現が押しつめられる。
 この『見えるものと見えないもの』でも、またこの遺稿とと同時期に書かれた『眼と精神』でも、メルロ=ポンティは画家アンドレ・マルシャンのつぎの言葉を好んで引いている。

 森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。〔引用者補記:『眼と精神』滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1966年、266頁〕

 自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003年/p.268-272)

ルーベン・デルスは、生活音に着目し、楽器と日用品などを組み合わせた自動演奏装置《耳鳴りを緩和させるもの》・《定常波サービス》・《絶滅したコンデンサコイル》と、自動演奏装置や生活音を発生させる情景を描いた絵画《休憩する空っぽの冷蔵庫のレコーディング》・《ドローン B Maj7》・《骨董空気》を展示。

上村洋一は、「あわい」と題し、インスタレーション《Floating Life》を出展。会場の床にオフホワイトの布を敷き詰め、ガラス窓に青とピンクのシートを貼るとともに、柔らかな光に包まれた清浄な空間を現出させる。会場中央のブランケットには観葉植物の鉢や白い石を並べ、会場の随所にスケッチを印刷した紙の束と小さなライトスタンド、そしてスピーカーを設置する。スピーカーからは、氷が溶けて滴るような音や鳥の声など環境音とシンセサイザーを組み合わせた音楽が流れる。映像なきダグ・エイケンとも表しようか。真夏の東京に突如現れた北欧風のオアシスに長居をしたくなることは請け合い。黒田大スケが死者を召喚する暗闇から上がってこの空間に辿り着くと、地獄から天国へ至った『神曲』のダンテの心境を味わえる。