可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』〔角川文庫サ-5-1〕KADOKAWA(2021)を読了しての備忘録
Thomas Savage, 1967, "The Power of the Dog"
波多野理彩子訳

モンタナ州南西部。ボストンの名門に連なるバーバンク家のフィルとジョージの兄弟は、今は引退してソルトレークシティにあるホテルで悠々自適の生活を送る先代から牧場を引き継ぎ、25年経った今では、一帯では最も成功した牧場経営者として知られていた。フィルが長身で細身なのに対し、弟はずんぐりした体型。快活で賢く何でも器用こなすフィルは辛辣で、地味で寡黙で無趣味なジョージはおっとりとしていた。対照的な二人の兄弟は、先代や使用人がいなくなった広い屋敷の子供の頃と同じ部屋で寝起きし、いつも行動を倶にした。毎年秋には1000頭の仔牛を出荷するために40キロ離れたビーチに向かう。1924年の秋、バーバンク牧場の一行は、汽車の遅延のために足止めを喰らった。自殺した医師ジョニーの妻ローズが一人で切り盛りするホテル兼レストラン「レッドミル」で夕食をとった際、フィルはローズの一人息子ピーターを揶揄う。その晩、ジョージは兄弟の部屋になかなかやって来なかった。先に眠っていたフィルがジョージに気付いてどこにいたのか尋ねると、「今夜、兄さんがあの男の子に言ったことが、彼女を泣かせたんだよ」とジョージが答えた。ジョージはローズのもとにいたのだ。ジョージは日曜日になると農場から姿を消すようになった。フィルは雇い人からジョージがローズと2人でいるという話を耳にしたが、聞こえないふりをした。12月の初め、寒波に襲われた日、フィルはジョージがローズと結婚したとの報告を受ける。

「わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から救い出してください。」(『詩編』第22章第20節)がエピグラフとして掲げられ、「犬の力(the power of the dog)」という題名がそこから採用されていることが明示されている。
それでは、「犬の力」とは何なのか。
まず、「犬」に関わる描写を確認しておこう。

(略)だが、彼が見ているのは、母なる自然の創造物だけではない。自然そのもののなかに――おそらく、自然が深く考えず、気まぐれにみずからを配置していったなかに――超自然的な存在を見てとっていた。牧場の家の前の丘には、岩肌が露出しているところや、丘という顔にできたニキビのように、ヤマヨモギが絡みあって大きくなっているところがあるのだが、彼はそこに、走る犬の躍動感あふれる姿を見ていた。細い後ろ脚で筋肉質の肩を押し出しながら、息づかいも荒く、鼻を低くして、おびえる獲物を追いかける犬。たぶん、獲物は峡谷や尾根や北の丘陵地帯の暗がりを逃げ回っているのだろう。だが、フィルの頭の中では、勝負の行方は疑う余地もなかった。犬は必ず獲物を捕まえるはずだ。彼はほんの少し丘を見上げるだけで、犬の息の匂いを嗅ぎとることができた。しかし、巨大な犬がこれほどはっきり見えるのに、その姿を見た者は彼のほかに、あとひとりしかいなかった。ましてやジョージには見えるはずもなかった。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.84-85)

フィルは家の前の丘に「走る犬の躍動感あふれる姿」を見出す。フィルにだけがそれが可能であるのは、フィルが丘を見るとき、丘が鏡のようにフィルの姿を映し出すからであろう。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。1つ1つの色や音、肌触り、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoublement)によって出現してきたもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。〔引用者補記:モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1989年、158頁〕(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ 可逆性』講談社/2003年/p.270-271より孫引き。)

すなわち、フィルが「犬」なのだ。もっとも、「犬の力」とは、犬が持つ優れた嗅覚のことではない。何より視覚である。

 フィルの目は空色だ。無表情な目? いや、無垢な目だと言う人もいる。彼の目はとても鋭く、角膜と虹彩どちらも敏感で、光や影の加減がほんの少し変わるだけで、フィルはすぐに気づいた。彼の素手が、木の中の腐ったところや弱いところを感じとるように、彼の目も、まわりや、遠くや、深いところを見ていた。保護色と呼ばれる自然界の哀れな詐欺行為を見抜き、密集した枯枝や葉や地面の陰でじっとしている雌の鹿の、おぼろげな輪郭を見抜く。そして笑いながら鹿を撃ち殺す。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.84)

ここで例示される「雌の鹿」が、ジョージと再婚したローズを指すことは明白である。フィルの見立てでは、ローズはジョージの「家柄と財産と、腹黒い自分たちの残りの人生のために最適な就職先を確保する」(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.100)ことを企んでいる。

 彼はローズをはじめて見たときから、彼女がどういう人間か見抜いていた。あの女は自分に自信がない。だから、あんたの兄さんじゃ無いと言ったフィルの言葉をそのままジョージに伝えて、兄弟の仲をわざと引きさくまねはしないだろう。それに、ジョージを試したり彼の怒りを買いそうなことをしたり、家族に対する彼の愛情をもてあそんだりようしないように、細心の注意を払うはずだ。ジョージに食わせてもらうのだから。万が一、あの女がジョージに泣きついたとしても、それがなんになる? この家はジョージのものであると同時に、フィルのものでもあり、財産も、ジョージのものであると同時にフィルのものでもある。牧場の経営も順調そのものだから、ふたりで牧場を分けるとなれば、金銭面のことや河川や牧草地などの使用権をめぐって、もめるのは必死だ。たとえそれが狙いだとしても、彼女の立場が非常に苦しくなるだけだ。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.127)

州知事夫妻を招いての夕食会を開くことに決めたジョージは、最初の結婚の前に映画館でピアノの演奏をしていたローズにピアノの腕前を披露させようとしていた。ローズはピアノの練習を始めるが、ピアノを弾き始めると、フィルは当てつけがましく部屋を出て行った。フィルが寝室に入ったのを確認して演奏すると、フィルの部屋からバンジョーの音が聞こえてくる。

(略)彼女がピアノを弾くと、フィルもバンジョーを弾く。ローズが弾くのをやめて鍵盤を見つめていると、バンジョーをつまびく音も止まる。おそるおそるまた引き出すと、バンジョーもまた聞こえてくる。彼女がやめると、バンジョーもやむ。ローズは背筋に寒気が走るのを感じた。彼はローズの音を忠実になぞっている――しかも、さらに上手に。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.156)

州知事夫妻を招いての夕食会にフィルは現れなかった。それはジョージから「ある程度ちゃんとした格好」をするよう求められたフィルが、それに反発したからである。ローズは食事の後、余興にピアノを弾くようせがまれる。

 ローズはジョージをちらと見たが、彼が誇らしげにほほえんでいるので立ちあがり、ピアノまで歩いていった。ひとりの若者の背骨を折ったかもしれず、弾くたびにフィルの悪意ある模倣を誘発したピアノに。ピアノの先には食堂のテーブルがあり、ローズはフィルの席だけそのままになっているのを直視するうちに、一瞬、常軌を逸した考えにとらわれた。すべてはフィルが仕組んだことであり、彼はいまどこにいようとも、この状態を見て笑っているのではないか。彼の執拗な悪意はローズを追いつめ、蝕んでいた。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.192)

ローズは、フィルが「どこにいようとも、この状態を見て」いるような幻覚に囚われる。それもそのはず、ローズの生活の場となった屋敷の目の前の丘には、常に「犬=フィル」が存在するのであった。
だが、冷徹な目の力は、ちょうど「犬」の見える丘とバーバンク家の屋敷とが離れているように、対象との距離を保たなければ発揮されない。対象が像を結ぶには、距離が必要だからである。

いつしかローズは酒に溺れていた。フィルはローズにとどめを刺すべく、彼女の息子ピーターを手懐け、母親から切り離すことを企てる。休みの間、農場に滞在しているピーターに対し、牛皮を編んだロープをプレゼントすると約束したのだ。ところが、ローズが牛皮をユダヤ人に売ってしまい、完成することができなくなってしまう。その時、ピーターが自ら用意した牛皮を使って欲しいと申し出る。

 ぼくの皮を使ってもらえませんか。あなたにはよくしてもらったから。積年の匂いが漂うこの空間で、フィルはかつて一度だけ味わった感覚を、いまこの瞬間、喉元に感じた。もし失えば胸が張りさけそうになってしまうから、あれ以来ずっと期待もせず、また味わいたいとも思わなかった感覚を。
 だが、待て、この子の申し出は、あの小さな美人の母親を窮地から救うための姑息な手段にすぎないのでは? あなたみたいに編めるように、だと! 彼みたいに編めるようになりたいというほかに、生皮を持っている理由があるだろうか。彼を見習いたいと思うほかに。そうでないなら、なぜ生皮を細長く切ったのか? 少年はフィルになりたいのだ。フィルとひとつになりたいのだ。フィルがかつて一度だけ、自分以外の人とひとつになりたいと思ったように。そして、その人はもういない。踏み殺されてしまったのだ。20歳のフィルがブロンク(暴れ馬)の囲いの柵に座って見ているときに。ああ、なんという。だが、フィルは手が触れたとき呼びさまされる感情のことなど忘れかけていた。彼はピーターの手が触れている秒数を心の中で数えながら、肌が押される感触に歓喜していた。その感触は、彼の心が知りたがっていたことを教えてくれた。(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.325-326)

ピーターの手が触れたことをきっかけに、フィルもまた長い腕を少年の肩に回すことになる。対象と接触したことで、対象との距離の喪失し、フィルは「盲目」になる。その結果、かえって「あの女は世界の終わりをもたらしかねない」(トーマス・サヴェージ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』KADOKAWA〔角川文庫〕/2021/p.99)との洞察が正しかったことが明らかになるだろう。

手袋をしないフィルが斃れ、手袋をはめたピーターが勝ち残る。触れることが禁忌となるコロナ禍の時代に、なんとふさわしい作品であろうか。