可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ささきなつみ個展

展覧会『第8回トリエンナーレ豊橋 星野眞吾賞展 大賞受賞作家 ささきなつみ展』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2023年11月4日~26日。

動植物と人体が融合したような「リンジン」など、架空生物をモティーフとした絵画・テラコッタで構成される、ささきなつみの個展。
皮に描かれた大画面の絵画は、地中に潜り込んだような感覚を生じさせる。

 隣人あるいはよそ者の論理は、友と敵の論理ではなく、共生的なリアルの論理である。主権と例外と決定は、共生的なリアルとは一緒に作動しえない。なぜならそれらは排除の論理にもとづくからだ。よそ者の論理が意味するのは、生命圏としての全体は沈越的である、ということである。それは荒廃していてボロボロで、いくつかの断片が欠損していて、その諸部分の総和よりも少量である。(ティモシー・モートン〔篠原雅武〕『ヒューマンカインド 人間ならざるものとの連帯』岩波書店/2022/p.251)

《変身譚》(2450mm×4000mm)は、霧が地面を這うように拡がるシラカバ林に、右手を腕枕に正面向きで恰も涅槃図の如く横たわる人物を描いた作品。画面の下半分を占めるのは、まるで自室で寛ぐかのようにランニングシャツに短パンのみの姿を晒す人物。禿頭で、右目は閉じられ、左目は半眼だ。覗いた眼球はウサギの目のように赤い。そして、この人物を最も特徴付けるのは、ウサギのような長い耳である。右耳は地面に伏せられ、左耳はほぼ地面に垂直に立つ。シラカバの皮目(皮孔)は口であり、周囲や地中からの音のメタファーである。

 ダーウィンは、進化のあらゆる段階に変異が存在すると主張する。事物は目的論的には進化しない。DNAの変異は、現にあるニーズとのかかわりにおいて、ランダムである。私たちはこのことを知っている。(略)
 それは、きわめて驚くべきことを意味している。
 進化のテープをどこかの時点で止めてみるとき、そこに何らかのXの力をかすかに示す種を見出すことになるだろう。たとえば、自ら飛び出すことができて、空気を吸うことで数秒程度は生き延びることのできる魚がいる。この華々しい行動には何の意味もないように思われれるかもしれない。魚のなかに、この行動を不穏なものと考え、魚類を脅かすものとすら考えるものもいるかもしれない。おそらく、この魚は危険である。おそらくどこかに幽閉するか薬漬けにしておくほうが魚にも都合がいいだろう。その魚は自らを傷つけるかもしれないから。その魚は、実際のところ危険である。存在論的に危険だ。自らの構造のすべての部分のいたるところに「自分がまさしく魚だ」という思い込みを刻みつけていると考える魚にとって、その魚は危険だ。
 ちょうどイリガライがセクシャリティについて述べるのと同じく、種は1つではないし、2つでもない。重要なのは、種はX種をかすかに示している、ということである。オウムとXオウム。男性とX男性。オークの木とXオークの木。青緑色最近と、他の単細胞組織の内部で生きていく特殊能力をもつX青緑色最近。これらのX青味色細菌は葉緑体と呼ばれているが、植物が緑色で光合成することができるのはこの葉緑体のおかげである。同じく嫌気性バクテリアは別の仕方で進化する単細胞組織のなかにかくれていて、あなたの体のあらゆる細胞のなかにいる。それらはミトコンドリアと呼ばれているが、あなたがこの本をよむことできるのはこれらのミトコンドリアのおかげである。これらがあなたにエネルギーを供給する。あなたの眼球は、バクテリアの強大な力のおかげで、このページの上を動き回ることができる。
 あなたは、この変異する影である亡霊的な精霊なしには、生命体になることができない。生きていることは超自然的であることを意味する。
 種は個体ではない。私には種をその構成員へと分割できるし、構成員には未来と過去のバーションが存在する。だがそれは、いっそう深く構造的な意味で個体ではない。種は個体ではない。なぜならそれは「一」として数えられないからだ。種は、そのX存在につきまとわれることで、ちゃんと存在することができるようになる。この意味で種は完全に独自である。なぜならこの「1+X」の質を把握することはできず、変異は何かの「ために」あるのではなく、強い意味で予見できないものであるからだ。個体であることと独自であることのあいだには、はっきりした差異がある。(略)
 かくして、人類の概念は、所々の存在をすでに定められた箱に収容するものではないということが、深く理解されるようになる。それは今現在の私の人間としてのアイデンティティが、ポストヒューマンのような未来の実体によってえぐられていくということではない。この場合、私たちがしているのは、バラバラの自己同一的な人間たちの形而上学を、物体あるいは生の自己同一的な流れの形而上学で置き換えることであって、そこで私と私の変異した未来は、流れのなかに存在する諸々の段階でしかない。種の物象化という問題に及ぶ影響は、ほとんどない。
 本当に問題になっているのは、まさに今この瞬間において、私の存在がつねにすでに私のX存在の影を漂わせている、ということである。それは、私のまったき存在のための可能性の条件である。それは、カエルも人間も青緑色細菌も本当のところは現実でなく、その下部にある「生」の流れが本当の現実である、ということではない。だが、カエルが存在するし、それはタコではない。カエルが消されることなどない。だが、カエルが存在するのは、あらゆるカエルにその影としてのXカエルの分身がいることを条件とする。魂と身体という一般的な概念は、この気味悪さを手懐ける方法で、階層序列的な社会構造に落ち着かせようとするが、そこではいかなるよそ者も存在しない。魂は身体にうまく収まっているが、それは身体ではない。Xカエルはカエルの周りで落ち着きなく漂っているが、それはカエルであり、同時にカエルではない。フロイトが不気味なものについての論考で観察しているように、魂の概念は、亡霊の概念の影を漂わせている。エコロジカルな目覚めは、きらめきや揺らめきのような無で満たされているが、それは現前と不在が絡まり合う影の戯れである。(ティモシー・モートン〔篠原雅武〕『ヒューマンカインド 人間ならざるものとの連帯』岩波書店/2022/p.118-121)

《変身譚》の人物を囲む霧は、「変異する影」すなわち「亡霊的な精霊」であろう。「私の存在がつねにすでに私のX存在の影を漂わせている」のだ。人物の半眼は「エコロジカルな目覚め」の象徴である。ランニングに短パンで寝転がるのは、「変身」、すなわち進化が目的論的ではないことを示す。また、エゾオグルマのような顔を持つ人間「リンジン」を描く《コン》(2270mm×2350mm)や、ササユリと一体化した人間「リンジン」の《クワイハウ》(3200mm×2400mm)は、進化が「現にあるニーズとのかかわりにおいて、ランダムである」ことを暗示する。

 土壌は諸々の生命体を分解し、これらの生命体の拡張型であるバクテリアを分解する。ここでマルクスは、人間ならざるものの存在をほのめかしているのだが、それでもこれらを消してしまう。彼が土壌の喪失を嘆くのは、その肥沃さfertilityのためである。ここでいう土壌の肥沃さは、人間の物質循環に不可欠なのだが、土壌は人間にアクセスされるものとして考えられている。これは人間中心主義のもとになる土壌である。だがそれでも、ここには人間ならざるものが含まれているのだから、それらをマルクス主義の内部において消さないでいることもできるかもしれない。これは朗報である。というのも、そうのようなことは、資本主義の厳密な経済理論の領域においてはまったくありえないことのように思われるからだ。
 「自然」と呼ばれるもののせいで、人は共生的なリアルの奇妙さに盲目になり、それに耳をふさいでいく。まさに今、地球上のすべての人に生じているエコロジカルな目覚めのおかげで、人はふさいだ耳から手を離し、18世紀後半にうるさくそしてはっきりと伝達された、それを伝える者たちも完全には聴きたいと思わなかったメッセージを聴くようになる。
 カントの相関主義は、人間ならざるものはただ相関されるだけでなく相関していくものでもあるということを密かに意味していたのだが、彼はそれに耳をふさいだ。カントは、自分が発見した溝を、人間的な存在者とその他のすべての存在者の間の溝に限定した。今はこの溝に対する著作権管理を解除すべきときである。この解除の名は、エコロジカルな目覚めである。エコロジカルな目覚めとは、思考と実践において、人間ならざるものという亡霊的な宿主と共存することである。思考は、それ自体が共生的なリアルにおいて亡霊を呼び出す方法の1つである。この点で、各人の「内的空間」は、一緒にいるということを想像するための試験管だが、形而上学的な厳格さは、この想像を拒絶する。ちょうど、吸血鬼を追い払うためにニンニクを振りかざす農婦のように。(ティモシー・モートン〔篠原雅武〕『ヒューマンカインド 人間ならざるものとの連帯』岩波書店/2022/p.97-98)

しゃがみ込んで地面に手を置くと、根が生えて地中に伸びていく一方、地中から手を伸ばすと、指先がとなってをバスから手から茎が伸びて花が咲く様を描いた《天》(3200mm×2120mm)は、「人間ならざるものはただ相関されるだけでなく相関していくものでもある」ことの表現と言えよう。
《コン》・《クワイハウ》・《天》だけでなく、リンジンの描かれる支持体は、不定形の、穴が開いた皮である。皮は「荒廃していてボロボロで、いくつかの断片が欠損していて、その諸部分の総和よりも少量である」生命圏を表わす。《変身譚》において「エコロジカルな目覚め」が生じたことで得られる世界像である。