可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 吉永朋希個展『人間模様』

展覧会『吉永朋希個展「人間模様」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年3月6日~11日。

主に恰もクローンのように同じ姿をした人物が縦横に並んで画面を覆う作品で構成される、吉永朋希の絵画展。全16点。《人間模様》や《アイデンティティー》など同題・同画面の作品を並べることでキャラクターの増殖や均質性が強調されている。

《人間模様》(333mm×242mm)は、いずれも"Q"を黒く塗り潰したような髪を持つ同じ姿の人物の裸の背面を縦横に並べて描いた作品。横に4人縦に3人(上部に身体だけ見える4人、下部に頭の一部が覗く4人も)で整列している。身体、とりわけ腕が縦に長く伸ばされている。ペールオレンジの肌や背景には細かなドットが、陰翳表現として立体感を高めるために入れられている。上下左右に傾斜が付けられて、そこにまで描かれている。同様に《対人関係》(227mm×158mm)にも"Q"の黒髪の人物が裸で背を向けている姿が3列3段に並ぶ姿が描かれている。《人間模様》と《対人関係》との差異は分明で無い。同じキャラクターが繰り返し描かれるのは、個々人の間に差異がなく均質化・平均化されていることを物語る。"Q"の形に表わされた黒髪は疑いや疑念を表わすのか、あるいは吹き出しが黒く塗り潰され――あるいは黒いヴィニル袋を被せられ――、発言が封じられているのか。

アイデンティティー》(300mm×240mm)は、真ん中で分けた髪の下の顔には黒い円が広がり、その黒い円の中にまた黒い円を持つより小さな顔があり、その黒い円の中にまた黒い円を持つさらに小さな顔が、という入れ籠の顔を描いた作品。ペールオレンジの肌、黒い髪や周囲の闇には同系色の水玉が入れられている。《アイデンティティー》(910mm×727mm)は黒い円を持つ顔が入れ籠では無く、7列と6列との交互で11段(上端の切れているものを含めると12段)ほど並べられている。アイデンティティーたる個性が存在しないのか、均質化により差異化であることを訴えるのか。《自己喪失》(727mm×910mm)では、黒く塗り潰された顔を持つ人物が9列4段で並んでいる。

《人間不信》(728mm×1030mm)は、"Q"の髪を持った人物が前傾姿勢で並ぶ姿を斜め横から捉えた姿が6列2段(なお、上下に1段ずつ切れているものを含めれば4段)で並んでいる。

人間の均質化とそれに基づくアイデンティティー・クライシスがテーマになっていることは疑いない。顔のないキャラクターは、「人間不信」を掲げた作品があることも相俟って、表面的にはネガティヴな印象を受ける作品群である。しかし、画面に細かく入れられているドット(水玉)を原子や素粒子といった微粒子の象徴を含意すると解することで、自分というものが存在しない(≒アイデンティティー・クライシス)ことを、「我々の身体は常に原子レベルで入れ替わっていて、常に交換し合っているのだから」過去・現在・未来の全てであると捉えるポジティヴな解釈も可能になるのではなかろうか。

 私達の宇宙はビッグバンによって始まり、やがて生物が生まれました。生物が他の無機質より不安定であり、やがて死ななければならないのは、恐らくそこに多様性を発生させるためです。我々がなぜ生きているのか。その理由を今から私なりに述べましょう。それは、物語を生むためです。(略)我々は物語を発生させるために生きている。我々は、我々の物語を生きるために生きている。無数の物語を、我々はこの世界に発生ささせ続けているのです。そしてその物語に優劣はない。
 約千数百億個の神経細胞、そのそれぞれが無数のシナプスで結合されている脳を始め、膨大な素粒子の驚異的な結び付きによって私たちの存在は成り立っています。幻視、それを構成する陽子、中性子、電子。世界をこのような姿にするための、電磁力の強さを決める電気素量の値、陽子や中性子を結合して原子核をつくる強い力の強さを決める結合常数の奇跡的な値。圧倒的に凄まじいこのミクロの素粒子の仕組み、その集合であるこの世界、ビッグバンで生まれ、0.01秒後に1000億度になり、3分の間にヘリウムなどの原子核ができたこの約137億年前から続く圧倒的な“世界”が全て、今のあなたの土台にあるのです。私達の生は、この圧倒的なシステムによって支えられている。だからこう言い換えることもできる。これらの凄まじいシステムは全て、生まれてきた我々に与えられたものであると。つまりは全て、あなたに与えられたものであると。
 ではなぜ物語が必要なのか? それはわかりません。ですが、この世界は物語を欲している。原子は、人間という存在を創り出す可能性に満ち満ちていたのだから物語を創り出す可能性にも満ち満ちていたことになる。我々の不安定な生からなる様々な物語が何に役立っているのかはわからない。でも、世界とは恐らくそういうものなのです。世界の成り立ちに、つまり原子にその可能性が満ち満ちていたという証拠から、我々は物語を発生させるために生きていると考えていい。神とは、恐らくこの世界、宇宙の仕組み全体のことです。だからこの世界の成り立ちそのものを神と呼んでいい。世界の偉大な古き宗教は、それぞれの文化によってその神の見え方が異なっているだけです。
 神に祈る。それはだから、全てに対して祈るということです。自分以外の全てに。いや、自分というものも本来は存在しない。我々の身体は常に原子レベルで入れ替わっていて、常に交換し合っているのだから。だからこう言い換えることもできる。神に祈るとは、自分も含めた全てに対して祈ることなのだと。(中村文則『教団X』集英社集英社文庫〕2017/p.478-480)