可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小川佳奈子個展『寡黙な饒舌』

展覧会『小川佳奈子展「寡黙な饒舌」』を鑑賞しての備忘録
JINEN GALLERYにて、2023年9月12日~17日。

古物や植物・動物などの取り合わせによる絵画13点で構成される、小川佳奈子の個展。

 何らかの意味の場に何かが現象することがありうるためには、その何かがそもそも何らかの意味の場に属していなければなりません。たとえば、水はガラス壜のなかにあることがあえりますし、何らかの着想はわたしの世界観に属するものでありえます。同じように、ひとは国民として何らかの国家に所属していることがありえます。3という数は自然数に属していますし、分子は宇宙の一部をなしています。このように何かが何らかの意味の場に属しているわけですが、その属し方こそが、その何かの現象する仕方にほかなりません。決定的なのは、何かの現象する仕方がいつでも同じわけではないということです。すべてが同じ仕方で現象するわけではありませんし、すべてが同じ仕方で何らかの意味の場に属するわけではありません。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018/p.108)

《おどろきもものき》(180mm×140mm)の卓に置かれた台に載せられた鉢に植えられた桃の木や、《浮かぶ灯》(333mm×455mm)の卓の上に敷いた布の上に置かれた燭台の蝋燭など、作家がある対象の存在の場について極めて意識的であることが、ある対象を設置する場を幾重にも重せてみせることで示されている
メインヴィジュアルに採用された《宴》(530mm×455mm)では、棚の中に置かれた品々を描くが、右半分を占めるのは、砂を混ぜているのかざらついた表面の鉢に植えられた緑の観葉植物である。左下には積み上げられた花札と、1本の徳利、積み重ねられた7個の猪口、そして散らばった3枚の花札と転がったサイコロ。左上には石とその穴から覗くウサギがいる。1つの棚の中にあるように組み合わせつつ、板などの位置のズレから、3つは別の場にあることが示されている。植木鉢が存在する、酒器と花札とが存在する、石とウサギとが存在する、ぞれぞれの意味の場――全てを包括する意味の場ではなく――が描かれている。

 普通、わたしたちは世界にではなく、さまざまな対象に関わっています。そのさい、そのつどの意味の場の位置づけに、つねに明示的に取り組んでいるわけではけっしてありません。むしろ、たんに対象があるのを目の当たりにしているにすぎません。対象は、そのようにしてわたしたちと世界とのあいだに立ち、自ら身をもって自らの意味の場を覆い隠すとともに、世界それ自体は存在しないという決定的な事情をも覆い隠しています。だからこそ、わたしたちは、世界は存在すると考えるわけです――が、このような間違いから、芸術はわたしたちを解放してくれるのです。
 結局のところ、いっさいのものは何らかの背景の前に歩み出ていますが、当の背景がそれ自体として前に歩み出ることはありません。(略)いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。〔引用者補記:マレーヴィチの、白地を背景に黒い正方形を描いた〕《黒の正方形》が象徴的に示してみせている〔引用者註:白地を背景とした黒い正方形という絵画が世界を前に歩み出ている〕ように、どんな対象も何らかの意味の場のなかに現象しますが、当の現象の背景はそれ自体として現象することはありません。だからこそマレーヴィチのシュプレマティズムには、もはや通常の世界は現われてきません。それでこそマレーヴィチは、世界の空疎化という初期の効果を得ているわけです。こうしてマレーヴィチは、「すべてを包摂する意味の場があるはずであり、そこにすべてを統合しなければならない」という脅迫的な表象からわたしたちを解放し、統合への強迫を克服させてくれます。そのような強迫は、わたしたちが「存在するいっさいのものを組み込まなければならない唯一の概念的秩序が存在する」と前提するところから生じるものだからです。
 (略)
 芸術によって推し進められ、自由を指し示している世界の空疎化のポイントは、対象を孤立させて対象関係なしにそれだけで存在する物と見なす代わりに、むしろ対象を連関のなかで認識するところにあります。何ものも、それだけで存在することはありません。むしろ、いかなるものも、そのつどに異なった特有の仕方で、なんらかの意味の場に現われてきます。じっさいマレーヴィチの黒い正方形も、ひとつの意味の場のなかに現象しています。そしてポイントは、この意味の場それ自身も、当の絵画作品のなかに現象しているということです。この絵画作品それ自身が、自らの対象に枠組みを与えているわけです。この作品自身による枠組みに示されているのは、いかなる対象も何らかの特定の意味の場でこそ問題になるということにほかなりません。
 このようなことを背景にすると、やはり注目に値するのは、手紙を読む女の情景にたいして、当の絵画作品のなかで、明らかにフェルメールがじつに多様な枠組みを与えいるということです。じっさいフェルメールの作品は、さまざまな枠と枠組みに満ちています。たとえば、開かれた窓がそのひとつです。この窓を通して、室内に光が差し込んできています。また、その窓枠も1つの枠になっています。この窓枠は小さな内枠で仕切られていて、そのなかに手紙を読む女が映り込んでいます。この絵画作品《窓辺で手紙を読む女》に描かれた情景の枠も、ひとつの枠にほかなりません。この作品を強調しているのは、わたしたちが現に枠づけられた風景に目をやっているという事実です。もし手前に描かれているカーテンが閉っていたら、この情景は完全に遮蔽されて見えなくなっていたかもしれません。(略)
 (略)
 (略)意味の場の存在論は、人間によるさまざまな見方・見え方――パースペクティヴ――を、存在論的な事実として理解します。世界が存在しないがゆえに、無限に多くの意味の場が存在する。わたしたちは、それらの意味の場のなかに投げ込まれ、またそれらの意味の場から出るさいに、新たな意味の場を生み出しているわけです。しかし新たな意味の場を生み出すとは、けっして無からの創造ではなく、さらなる意味の場への転換にすぎません。人間は、誰もが一人ひとりの個人です。しかし、同じようにそれぞれ個々のものであるさまざまな意味の場を、わたしたちは共有しています。ですから、わたしたち1人ひとりが自分自身に閉じ込められているわけではありません。ましてや自らの自己意識に閉じ込められているのではありません。わたしたちは、無限に多くの意味の場のなかをともに生きながら、そのつど改めて当の意味の場を理解できるものにしていくわけです。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018/p.267-274)

《虎視眈々》(1213mm×990mm)は、カーテンの掛かった部屋に扉に螺鈿が施された箪笥が置かれている。その箪笥の上に虎が乗っかり扉の中に手を突っ込んでいる。また箪笥の下段の抽斗が引き出されて、中から人の右手が覗いている。部屋の箪笥、箪笥の上(箪笥の外)の虎、抽斗(箪笥の中)の人(の手)と、それぞれの意味の場に存在するものが表わされ、なおかつ意味の場から出ることで新たな意味の場を生み出すこと――「さらなる意味の場への転換」――が表現されている。「それぞれ個々のものであるさまざまな意味の場を、わたしたちは共有してい」るのである。
ここでは作家が「さらなる意味の場への転換」を意図していることに着目すべきだ。それは「何かの現象する仕方がいつでも同じわけではない」ことを訴えるためであろう。ものごとはわりきれず、どちらつかずのことがある現実こそ非現実の絵画に表現するのだ。それは、作家が「寡黙な饒舌」のようなオクシモロンに執着していることから明らかである。

 (略)たとえば、「私は私ではない」(I am not what I am)というオクシモロンの表現は、喜劇『十二夜』にも悲劇『オセロー』にもある。
 『十二夜』では、オリヴィア姫が男装したヴァイオラに惚れてしまい、夢中で口説こうとするやりとりのなかに、この表現が出てくる。
オリヴィア 待って――。ね、お願い、私のこと、どう思っているか教えて。
ヴァイオラ あなたは、本来のあなたを見失っておられます。
オリヴィア 私がそうなら、あなただってそうだわ。
ヴァイオラ そのとおりです。僕は今の僕ではありません(I am not what I am)。
(第三幕第一場)
 この最後の行でヴァイオラが言おうとしている真意は、「僕は今、男のふりをしていますが、それは本来の僕ではありません」ということだ。
 一方、『オセロー』では、悪党イアーゴーが「正直者のイアーゴー」と呼ばれてオセロー将軍の正直で忠実な旗持ちという定評を得ているが、実はオセローを憎んでいて、忠実なふりをしているだけだと言う。
この胸の内で思ってること、やってることを
外に出して見透かされたりなんかするもんか。
それくらいなら自分の心臓を
袖先にぶらさげて、カラスにでも
つつかせるさ。今の俺は俺じゃないんだ(I am not what I am)。
(第一幕第一場)
 この最後の行は、「俺は正直者のイアーゴーと言われているが、それは本当の俺ではないのだ」という意味である。そこには悪党のほくそ笑む姿がある。悪党の思いどおりになって罰せられることもないとしたら、それは悪党にとっての喜劇世界だろう。
 AであってAでないという、矛盾律を否定した世界こそシェイクスピアの喜劇世界だと言ってよい。論理学の世界とちがって、実人生では、ものごとはわりきれない。そうなのだがそうではないというどちらつかずのことがあるから、人は悩むのだ。「私」というものの中身も変化し、「良い」と思っていたものが「悪い」に変わったりする。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016/p.140-141)

古物、植物・動物によるシェイクスピア劇こそ、作家の描く世界である。