展覧会『テート美術館展 光 ターナー、印象派から現代へ』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館〔企画展示室2E〕にて、2023年7月12日~10月2日。
18世紀末から現代までの光をめぐる表現や技法の移り変わりをテート美術館のコレクションで辿る企画。出品リストのセクションがRoom1~Room7と展示空間によるように、章立ては明確にされない。個々の作品解説とは別に、7つのテーマ(「精神的で崇高な光」、「自然の光」、「室内の光」、「光の効果」、「色と光」、「光の再構成」、「広大な光」)の解説と、各作家の作品のポイントとが随所に掲示されている。
なお、リリアン・レイン《液体の反射》[R4/58]とオラファー・エリアソン《黄色vs紫》[R6/82]の2点は作動時間が限定されている。
理性を重視する啓蒙時代(Enlightenment)――文字通り光(light)の時代――の最中にあっても、依然としてキリスト教の影響力が大であったことが、ジョージ・リッチモンド《光の創造》[R1/08]など聖書に纏わる作品を冒頭に飾ることで示される。ジェイコブ・モーア《大洪水》[R1/03]の人々を照らす光は神(の恩寵)であるように、光は善である。啓蒙時代への反動期であるロマン主義の19世紀の作例として、巡礼者が茨の闇からキューピッドによって光の世界へ連れ出される、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ《愛と巡礼者》[R2/11]がある。
アニッシュ・カプーア《イシーの光》[R1/13](鑑賞者と隔てられて設置されているのが残念)は、白い卵の殻の上端・下端及び側面の4分の1程度を欠いた形の両国作品。内部は暗いヴァーミリオンで塗布されている。閉じつつ開かれた形は、闇=悪と光=善との入れ籠の関係を示すようだ。マーク・ロスコ《黒の上の薄い赤》[R5/64]は赤い画面に2つの黒い矩形を塗った作品で、赤い壁面の中桟のある窓のように見える。シンプルな作品は室内と室外との関係を容易に反転させることとなり、それは光と闇との反転可能性をも示す。
バーネット・ニューマン《アダム》[R5/63]は茶色い画面に縦に赤い線が入った作品。茶色はアダムを作るもととなった土塊を表わす。アダムを表わすヘブライ語"adamah"は赤の"adom"や血の"dom"とも近い。神が暗闇から光を分離して最初の日を作った行為を暗示するものとして茶色い画面の赤い線を捉える解釈もあるという。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは後年、光と色の効果に重点を置くことになった。夕陽の光に包まれ、湖と空とはほとんど区別がつかない《湖に沈む夕日》[R1/17]が印象派の画家に高く評価されたというのも――例えば、クロード・モネ(Claude Monet)の《印象・日の出(Impression, soleil levant)》を想起すれば――納得である。《陽光の中に立つ天使》[R1/09]・《陰と闇―大洪水の夕べ》[R1/18]・《光と色彩(ゲーテの理論)―大洪水の翌朝―創世記を書くモーゼ》[R1/19]において岩か何かの中に人々の姿が溶けている表現は、横尾龍彦の前期の具体的なモティーフを描いていた作品に通じる。
形を成さず顕れるヴィジョンは、より本源的だと思われる。意識のフィルターを経ていないからだ。いわば「何か」は「素のありさま」で顕現している。それは一種のエネルギー体であり、古来、形而上的な「光」として直観されてきた。いわは神的光である。これは夢の中の「光」と同種であり、網膜を介さず感得するものだ。なぜそのようなことが可能なのか。それは私たちが「光」を作れる存在だからだ。だとすると「光」には二種類あることになる。ひとつは網膜に映る物理的な自然光であり、もうひとつは網膜を介さない「不可視光」である。不可視の光をどうやって可視化するか。ここで重要なはたらきをなすのが絵画である。画家は内的な不可視光を色彩に変換し可視化する。ただ注意しなくてはならないことは、不可視光は画家の内面において「情動」として保たれているということだ。つまり未分化な「エネルギー体」の状態でうごめいている。うごめく内なるものは外的な刺激に反応し、発露する。刺激は外在するエネルギーによってもたらされる。これは自然や宇宙の諸力である。画家は、はるかかなたの星の運行や大気の動き、水の流れ、潮の満ち引きなどに反応して内的光として発露した様を画面に定着させる。「宇宙の諸力」の中には霊的力も含まれる。それが画家の内面に作用し、発光する。それを第三者にもわかるように絵画化する。こうなると画家はシャーマンに近い存在となる。(江尻潔「顕神の夢」江尻潔・土方明司企画・監修『顕神の夢 幻視の表現者』顕神の夢展実行委員会/2023/p.347-348)
《湖に沈む夕日》[R1/17]が「自然の光」(主にR2)ではなく「精神的で崇高な光」(主にR1)のセクションに並べられているのは、ターナーが「内的な不可視光を色彩に変換し可視化」した作品と判断されているからではないか。
ヴェスヴィオ山の噴火や地獄を描いた赤い画面(ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー《噴火するヴェスヴィオ山とナポリ湾の島々を臨む眺め》[R1/01]、ジョン・マーティン《ポンペイとヘルクラネウムの崩壊》[R6/06]、かつてジョン・マーティンに帰属《パンデモニウムへ入る堕天使『失楽園』第1巻より》[R1/07])と、満月の海岸を描く作品(ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー《トスカーナの海岸の灯台と月光》[R1/02])の対比も興味深い。
太陽や満月が円(球)として画面に現われる。球のイメージは、展示の最後を飾る、オラファー・エリアソンのミラーボールのような作品《星くずの素粒子》[R7/92]まで、会場の随所に現われる。ウィリアム・ホルマン・ハント《無垢なる幼児たちの勝利》[R2/10]の小川にできたシャボン玉のような水球(周囲の世界が映り込む鏡でもある)、草間彌生の《去ってゆく冬》[R2/59]の立方体の鏡に穿たれた円とその鏡像、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが講義用に作成した絵画[R4/35]に登場する透明の球や金属球、リリアン・レイン《液体の反射》[R4/58]のターンテーブル上の2つの球、ワシリー・カンディンスキー《スウィング》[R5/62]に登場する円の数々、ペー・ホワイト《ぶら下がったかけら》[R5/72]の天井から吊り下げられた無数の円形の色紙、ピーター・セッジリー《カラーサイクルⅢ》[R6/74]の照明によって色合いを変える同心円、オラファー・エリアソン《黄色vs紫》[R6/82]のガラス製のディスクとそれが投げ掛ける光。
ジョン・コンスタブル《ハムステッド・ヒースのブランチ・ヒル・ポンド、土手に腰掛ける少年》[R2/15]やジョン・ブレットの《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》[R2/22]は雲間から射し込む光線を描く。壁面に四周に隙間を空けて設置した長方形の板の隙間から青い光が放たれるジェームズ・タレル《レイマー、ブルー》[R6/86]もまたそれらと同じく、大気と光の作品化である。
光源も光線も示さず室内に差し込む光によって照らし出された対象を描く作品として、ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》[R3/32]、《室内、床に映る陽光》[R3/33]、ウィリアム・ローゼンスタイン《母と子》[R3/34](2点の画中画が何かが気になる)がある。
鏡、あるいは水鏡を描く作品として、クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ川》[R2/29]の川岸を軸とした線対称の世界、アルマン・ギヨマン《モレ=シュル=ロワン》[R2/30]の町を映す川面、草間彌生の《去ってゆく冬》[R2/59]の立方体の鏡、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング(726)》[R5/70]のスキージーで生まれた水面にも見える画面、ブルース・ナウマン《鏡と白色光の廊下》[R6/75]の、神社の参道と神鏡とを連想させなくもない、板に挟まれた細い通路の奥に設置された鏡(通り抜けられないことが禁忌を想起させもする)、オラファー・エリアソンのミラーボールのような《星くずの素粒子》[R7/92]などがある。
デイヴィッド・バチェラーの《ブリック・レーンのスペクトル2》[R6/84]は色取り取りの光を発する箱を縦に積み重ねたタワーのような立体作品であり、都市のトーテムである。赤や紫を着彩したアクリル板を取り付けた複数の台車を並べた、同じ作者による《私が愛するキングス・クロス駅、私を愛するキングス・クロス駅》[R6/83]は、自ら発光するものと反射するもの、固定と移動、垂直と水平といった対照を見せる。
オラファー・エリアソン《黄色vs紫》[R6/82]は、黄と紫という反対色(補色)が光の中に隠されていることを明らかにする。光の中で正反対の要素が共存している。
光は容易に闇に転じる。あるいは、光を認識するために闇が必要となる。光を捉えることは、闇を捉えることでもある。