可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小林明日香個展『reproduction』

展覧会『小林明日香個展「reproduction」』を鑑賞しての備忘録
RISE GALLERYにて、2022年9月3日~23日。

同じモティーフの変奏による作品や、版画・写真・模写といった複製に関わる技法を用いて制作された作品などで構成される、小林明日香の個展。

《picture frame 3-a》(460mm×390mm)は、額装された向日葵の絵が別の額装された絵に重ねられ、さらにそれが別の額の絵に重ねられることで、結果的に3つの額に囲まれた向日葵の絵が印刷された布の周囲に、4枚の紺色の布切れを額のように縫い付けた作品。描いた絵を撮影(印刷)し、加工して額装し、それをまた印刷して額装して加工し、と繰り返し加工を重ねている(同じ向日葵を描いた絵画の印刷された画像を切り貼りした作品が併せて展示されている)。

 (略)わたしたちが、絵に描かれた何らかの風景を観ているとしましょう。このときわたしたちは、この風景を誰かが描いたということを知っています。したがって、この風景画を描いた画家と当の風景画がともに描かれた絵を、さらに想像することができます。しかし、この絵もやはり描かれたものです。それも、当の絵に描かれている画家によって描かれたものではありません。絵に描かれた画家は、絵のなかに描かれている絵を(絵のなかで)描いているにすぎません。そこでわたしたちは、もともとの風景画を描いている画家が描かれている絵を描いている画家が描かれている絵を想像することができる――これが無限に続きます。無限背進です。
 すべてを描いている画家は、自らが描いている絵の制作にさいして、まさに当の絵を制作している自分自身を描くことができません。絵に描かれた画家は、それを描いている画家と、けっして完全に同じではありません。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018年/p.112-113)

3重に額装された絵をさらに布で額装した《picture frame 3-a》は、個々の画面を作成している画家の存在を想起させる。「すべてを描いている画家は、自らが描いている絵の制作にさいして、まさに当の絵を制作している自分自身を描くことができ」ないということを作品化した作品と言える。そして、隣に展示されている、《picture frame 3-b》のイメージを1枚の和紙に描き出した作品《picture frame 3-b》(530mm×410mm)によって「すべてを描いている画家」の存在が立ち現われることになる。

また、その中心に描かれているのが向日葵であることに着目すれば、太陽を介して、光をモティーフとした絵画と捉えることもできよう。

 (略)太陽光までをも描かれるべき積極的な対象としたいという、印象派の強い欲求は、〈近代的主体〉の産出の条件となった「無限回の告白」と同じ衝動に導かれている、ということだ。(略)
 (略)今ここであらためて注目しておきたことは、どうして、告白は終わることなく反復されるのか、(略)である。それは先立つ子空白(n回目の告白)を可能なものとしている超越論的な条件は、その後の告白(n+1回目の告白)にとっては、告白の主題、告白されるべき内容へと転じていくからである。告白にとっての超越論的な条件とは、もちろん、〈語る私〉である。〈語る私〉は、そのたびに、「語られる私」へと変換されるが、変換しても変換しても、なお、語り尽くせない残余として残る。いずれにせよ、告白にとっての超越論的な条件、「私」が何であるかということを語るという経験を可能なものとする条件を、何としてでも、語られるべき内容へと変換しなくてはならないという執念がなければ無限回を指向する告白など、起こりようがない。
 (略)
 さて、今、絵画に、あの無限の告白と同じ衝動が転移されたとしたら、どうなるだろうか。絵画を描くという体験そのものにとっての超越論的な条件〔引用者註:光〕が、描かれるべき積極的な主題へと転ずるとしたら、どうなるか。それこそ、何としてでも、光を、そのままキャンバスの上に再現しようという、印象派の方法になるはずだ。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学〉 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.228-229)

《picture frame 3-b》は、額装された絵の入れ籠の構造を描くことで、絵画の存在自体を表現した作品と言えるのではないか。そこに繰り返される額は、合わせ鏡の映像のようである。「私」は、無限に「私」を映し出す。「私」のリプロダクションを生成する。だが、鏡との間に距離が存在する以上、鏡像には(それがどんなにか僅かなものであっても)反射に要する時間のズレが生じる。常に描き尽くせない残余が存在する。その不一致そのもの、すなわち私という主体が問題とされているのだ。

展示室の一番奥に掲げられた《river bank》(606mm×1454mm)は、右側に画面上部(奥)の風車などが立つ河口方面に向かうゆったりした広い流れを青い絵具で描き、左側に彎曲する川岸を木製パネルの白い生地を活かして明るく表現している。画面手前の川岸には、右に向かって口ないし嘴を伸ばす獣ないし鳥の頭部のような流木が大きく表わされている。鉛筆による描画、コピー用紙の貼り付け、パネルの削り込み。とりわけ目を奪うのは、大胆に貼り付けられた2つの木片である。
展示の冒頭を飾る《map》(415mm×375mm)においても、地図を貼った画面や側面に、やはり地図を貼り付けた木片を貼り付けていた。
これらの作品における木片は一体何を示すのであろうか。絵画に付加され、絵画を立体的な作品にすることによって、絵画の平面性に矛盾を生じさせる、絵画における過剰であろうか。作品を〈物自体〉に擬えるとき、過剰である木片は主体そのものの表現になっているのではないか。そうすれば、《river bank》や《map》を――あるいはエアマシンフックを取り付けた《seaside》なども――《picture frame 3-b》と通底する作品であると理解できるかもしれない。

 (略)近代科学の多くの分野において、現実という〈物自体〉は数学的な形式化によってのみ把握できる。ヘーゲルの側、つまり「女性の」側から見ると、現象の領域はすべてではない。そこには例外はなく、その外部に〈物自体〉は存在しない。と同時に、そこは、矛盾に満ちていて、敵対による亀裂が入っている領域である。したがって、そこには何らかのかたちで主観的にゆがめられていない物は存在せず、この現象の領域における亀裂と矛盾を通じて〈物自体〉を認めることができる。言い換えれば、現象のあらゆる領域には、不可能な点、〈物自体〉を示す点が存在するのだが、この点――「絵についた染み」――は、主体の手を逃れる超越性の徴ではなく、まさに主体それ自身の代わりであり、絵に書き込まれた主体なのである。それゆえ次のようなパラドクスが生じる。主体は、〈物自体〉という円環に囚われてはおらず、〈物自体〉に到達できるのだが、この〈物自体〉との特権的な接触そのものが、主体であり、かつ主体が現実に書き込まれる点としての現実における亀裂である、というパラドクスである。〈物自体〉に到達するためには、みずからが書き込まれた跡のすべてを消すべきではない、そして主体が介入できないところに「それ自体で」存在する物を知覚しようとすべきではない――そういうことをすると、主体は、その純粋に知的な産物である抽象的な構築物(たとえば物理学における数式)をますますたくさんつくり出すようになる。ここで再びヘーゲルの口を借りて言えば、問題とはそれ自身の解決である。つまり、リアル(現実的)なもの(〈物自体〉)は、「客観的現実」における、主体の現前によって生じるゆがみそのものに位置付けられる、ということだ。「客観的現実」に適合しない過剰は、究極的には主体そのものなのである。(スラヴォイ・ジジェク中山徹・鈴木英明〕『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー青土社/2021年/p.506-507)