展覧会『梅津庸一監修 絵画の見かた reprise』を鑑賞しての備忘録
√K Contemporaryにて、2021年1月16日~31日。
「絵画とはいったいなんだろう?」という普遍的かつ素朴な問いに少しでも迫ろうとした『美術手帖』2020年12月号の巻頭特集「絵画の見かた」(梅津庸一監修)をもとに、「実社会のなかでは考えることが困難な領域を思考し、想像力を育む余剰の空間でもあるはず」の絵画について、自分なりの「見かた」を考えるきっかけとなるようにと梅津庸一が企画した絵画展。出展作家は、星川あさこ、塩川高敏 、島田章三、高松ヨク、西村有未、梅沢和木、梅津庸一、青木陵子、若松光一郎、カジ・ギャスディン、落田洋子、KOURYOU、安藤裕美、杉全直、田中秀介、たんぱく質、服部しほり、藤松博、石井海音、ペロンミ、中園孔二、弓指寛治、木下晋、海老澤功、池田剛介、續橋仁子、小野理恵、しー没、リチャード・オードリッチ、岡鹿之助。
(略)
絵画は参加型アートのように鑑賞者の作品の一部になったり、制作のプロセスに介入することはできない。しかし鑑賞者が能動的に作品を見て思考することで、はじめて真価を発揮するものでもある。それほど絵画には言語に還元できない情報がじつに多く含まれているのだ。
(略)
描かれた絵画を見るという行為もまた、じつに複雑であるはずだ。即物的に見る、主題や寓意を読む、時代背景や歴史的文脈を知るなど、多数の角度や方法がある。作品に関する解説や批評は作品の理解を助けてくれるが、そうした文脈や二次情報のみで判断してしまうという危険性も伴う。
アートに関わるキュレーターやアーティストでさえも、絵画の見かたがじつはよくわからない、苦手だという人はことのほか多い。絵画の背景にあるエピソードや社会状況、美術史を理解している人が専門家と言われ、しばしば権威のある社会的地位にいるが、だからといって絵を実際に描いたり、絵を見て即物的に読みとる能力に長けている人よりも、優れた見解を持っているわけではない。絵画は鑑賞者の感受性の豊かさや審美眼を試すものとは限らないし、それはいまのところ数値化できないのだ。
(略)
これ〔引用者註:絵画史において等閑に付されてきた大半の絵画を別の方法で美術史に組み込むこと〕をを困難にしているひとつの要因として考えられるのは、制作の原理と批評の原理との乖離である。絵画における批評が、もちろんすべてがそうだとは思わないが、簡単なことを難解な言葉で語っているにすぎなかったり、作品の背景の物語の紹介に終始してしまうのは、絵画を即物的に見るという行為と、作品の背景や文脈とを照らし合わせることんがおざなりになっているからにほかならない。(略)
ここに掲載〔引用者註:「本展に展示」と読み替え可能〕された作品たちは有名な作家のものからそうでないものまで、制作時代や文脈をある程度ばらばらにしている。これらの絵画に向かい合うと、わたしたちの眼は意識よりも早く像を結び、触覚的な質とともに描かれているものを知覚するだろう。造形がつくり出す作品内の動力は視線を無意識のうちに誘導する。そして作品から作品へと鑑賞者の目が移ろうとき、たんなる違いや共通点の比較ではなく、作品に刷り込まれた作者の数々の判断や決断を感知するはずだ。さらに、絵画作品はそれぞれが違った生成過程をたどっているため、内包されている時間の室も当然異なる。
作品によってその生成過程がわかりやすく開示されているものと、その糸口が閉じられていて解析するのに時間を要するものがある。また、そのような鑑賞者の読み解き方を逆手にとってプロセスの改竄を試みる意地悪な作品もある。
(略)この言葉〔引用者註:中西夏之の「隣り合わせた二人の四つの目、その真ん中二つで一人の新たな人格を作り上げて情景を見る方法」という表現〕の真意は測りかねるが、絵を見るという行為は他者の目を憑依させることでもあるはずだ。
作品と自己とのあいだに、また作品と作品のあいだに新しい人格が立ち上がることがあるのだとすれば、それは鑑賞ではなく制作と呼べるのではないだろうか。作品を見るという行為は鑑賞者側の意識を再編することでもあるし、作品を見出すことによって作品自体の質を変えてしまうことでもある。(梅津庸一「絵画とはなんだろうか?」『美術手帖』2020年12月号p.10-13)
服部しほり《人魚図》は岩の上に姿を現した人魚を描く。鑑賞者に向けられた眼差しと赤い唇、口元に寄せられた左手の青い爪が目を引く。指先の方向に胴から腰へ、腰から髪の毛の垂れ下がる下半身へ。下半身は中途で折れ曲がり、二股の尾びれが岩に打ち寄せる波を刺すように描かれる。岩の柔らかな描き方に対して、波はいくつもの切っ先を持つように描かれ、人魚(上半身の人+下半身の魚)のイメージのアナロジーとなっている。
池田剛介の《抽象表現マンガ(stroke#17)》は、ジェッソを塗布した白い平滑な面がマンガのコマように3つに分割されている。それぞれのコマに筆を力強く走らせるような幅のある線が描き込まれている。但し、墨ではなくエポキシ樹脂によるもので、線には立体感がある。3コマ目は灰に加えて赤と青も重ねられ、服部しほり《人魚図》の近くに展示されているせいもあろうが、岩と波濤の表現に見える。すると、作品全体が枯山水の絵画化として立ち現れる。
島田章三の《初冬》は、ピンクと茶とで統一された画面に女性が犬を散歩させている場面を表す。背後のY字の樹木が書割のようで、平板な円を連ねる犬を繫ぐリードと相俟って、女性の片身替の上着は幾何学的なデザインの舞台衣装に見えてくる。
石井海音の《room2》は、壁にピンク色のタイルの貼られたキッチンで、額に入った絵を掲げる女性を描く。チューリップを象った木製の額の中には十字架とそれに重なるような人物が水色の背景の中に描かれている。女性の背後、額絵の背後にはグレーで表されたコンロがあり、女性の頭部の位置には窓がある。窓には花瓶やグラスなどが置かれているが、木目の表された木で囲われているために絵画にも見える。漫画調の女性の大きな瞳には3つの白い円が浮かび、3つの世界を暗示する。女性のいるキッチンが現実を、女性の掲げる絵画が心理(内面)を、擬似的な絵画としての窓が外環境をそれぞれ表すようである。さらに、黒い描線が画面に大胆に描き込まれることで、それら3つの世界を強引に縫い合わせるようだ。
梅津庸一の《ヌーディストビーチ》は、池畔の草の上に裸身を横たえる女性を描いたラファエル・コラン(Raphael Collin)の《フロレアル(Floréal)》のパロディ。ヌーディストビーチを舞台にすることで、《フロレアル》が歴史や神話を口実にすることなく描かれたヌードであることを照射する。点描による明るい画面によって戸外制作の擬態の要素も加えている。背景に描き込まれた椰子の木は(2階のカーヴするカウンターを浜辺に見立てて展示されている同作家の陶芸作品《パームツリー》を踏まえればなおさら)男根を表すようでもあり、またコランの作品の舞台を展観したことから書割ないし舞台装置の印象も生んでいる。
田中秀介《化門》は、ガラス部分に塗装の養生のためにビニールを貼り付けた木製のガラス戸を描いた油絵。ビニールの折り返しによって「ガラス」上に両端を尾鰭とするような生物のような形が現れ、それがテープで封印するように留められている。ビニールによってくもったガラスの奥にぼんやりと鮮やかな世界が広がっている。異界への入り口を示すように、「ガラス戸」の木枠は歪んでいる。
續橋仁子の《トルコの旅から No.2》は、(おそらく)トルコの家並みの夕景。それだけ聞くと、須田国太郎がスペインの家並みを描いた《アーヴィラ》のような画面を想像するが、馬に乗る人物や女性が坂を上っていく辺り一帯には山が切り立ち、キノコが生えるように建物が群がっている。田中秀介《化門》が近くに展示されているせいもあって、この世ならぬ雰囲気を強く感じさせる。
木下晋の《生命の営み》は前屈みの人物を背後から描いた像。闇の中で腰から足が浮かび上がる。鉛筆画のモノクロームと、筆で描かれたカラーの和装の女性とでまるで画面の印象は異なるが、やや前屈みで下半身が画面で強調されている上村松園の《焔》を想起させるのは、モティーフが訴える力の強さのためだろうか。同じく木下晋の《願い》は、鉛筆で描かれた、仰向けに寝て胸の辺りで手を合わせている老人の胸像。ケーテ・コルヴィッツの描く人物を連想させる。《生命の営み》と《願い》とは黒白、縦横の対として対照的に展示されている。
弓指寛治の《挽歌2020》は祭りの屋台の木材の構造物に支えられた大きな絵画《挽歌》に加え、紐を通した多数の多様な形の木片《絵馬》、木の板に踊る人々を表した《盆踊り》から構成されている。絵画《挽歌》には、珊瑚のような桜樹(?)の並木のある河岸の此岸の広場で盆踊りが行われ、対岸には商店などの建物がびっしりと並び、その間を流れる川では、怪物が鳥のようなキャラクター(の集合体)と闘っている場面が表される。ヘンリー・ダーガーのような作者独自の物語が展開されている。とりわけ絵画や絵馬で執拗に描き込まれる鳥のようなキャラクターと、ひたすら輪になって踊り続ける人々の姿が印象に残る。