展覧会『ミロ展 日本を夢みて』を鑑賞しての備忘録
Bunkamura ザ・ミュージアムにて、2022年2月11日~4月17日。
ジョアン・ミロ(Joan Miró)を、日本との関わりの観点で紹介する企画。ジャポニスム(主に浮世絵)の影響を紹介する「Ⅰ:日本好きのミロ」(13点。ミロの作品は5点)、主に1920年代と30年代の作品を展示する「Ⅱ:画家ミロの歩み」(20点。ミロの作品は15点)、画面に文字が描き込まれた作品を中心とした「Ⅲ:描くことと書くこと」(ミロの作品6点)、焼き物・書・民芸品とともにその影響を受けたミロの作品を並べた「Ⅳ:日本を夢見て」(23点。ミロの作品は9点)、ミロのアトリエに遺された品々を陳列する「ミロのアトリエから」のコーナー(道具、民芸品、拓本、書籍など25点)を挟み、ミロ展と大阪万博のための2度の来日にまつわる品々で構成される「Ⅴ:二度の来日」(36点。うちミロの作品は21点)、日本滞在によって前衛書などの日本文化を咀嚼して制作されたことが窺われる70年代の作品を中心とした「Ⅵ:ミロのなかの日本」(ミロの作品9点)の7つのセクションで構成される。
【Ⅰ:日本好きのミロ】(13点。ミロの作品は5点)
ミロが生まれる5年前の1888年、バルセロナで万国博覧会が開催され、ジャポニスムがブームになった。前衛芸術家の拠点で、ミロが初個展を開催したダルマウ画廊は
日本の版画展も開催していた(1908年、1920年、1921年)。
ミロによる友人の肖像画《アンリク・クリストフル・リカルの肖像》[001]には、富士や城を背景に傘を手にした女性らの姿を描いた浮世絵版画が背景にコラージュされている(同じ図柄のちりめん絵〔刻みのある棒に巻き付けて圧縮した浮世絵版画〕[002]を併せて展示)。
既に16世紀から扇子はポルトガルによってヨーロッパにもたらされていたが、フィラデルフィア万博(1876年)、パリ万博(1878年)をきっかけに日本趣味がブームになると、扇子はエキゾチックな装飾品として愛用されるようになった。ミロ《赤い扇》[010]には、鉢植えの赤い花と赤いリンゴとともに、開かれた赤い扇子が、緑色を中心に配した幾何学的な模様の中に描かれている。
ミロの《花と蝶》[011]には花瓶に活けられたハイビスカスなどとともに、アゲハチョウが描かれている。荒木田守武「落花枝にかえると見れば胡蝶かな」が着想源となった可能性があるという。
【Ⅱ:画家ミロの歩み】(20点。ミロの作品は15点)、
1920年に初めてパリに滞在し、1921年からは1931年にバルセロナに戻るまでパリを拠点の1つとして活動する(モンロッチにもアトリエあり)。1925年から1927年前半にかけて描いた、モノクロームの背景に線や記号のような形を配する150点ほどの絵画群は「夢の絵画」として知られて、《絵画(パイプを吸う男)》[014]、《絵画》[015]、《猫と紐》[016]が展示されている。「夢の絵画」は、シュルレアリスムのオートマティスムと結び付けられてきたが、準備素描に忠実に制作されていることが明らかになっている。
ミロ《無題(恋人たち)》[019]には裸の男女が腕を交差させている様子が描かれる。画面右側には女性の手から飛び出した点の周囲に黄色い円が広がっている。その円は、生命の源(胚珠)を表わすものだという。
1932年から翌年にかけて東京・大阪など大都市を巡回した巴里新興美術展覧会に、ミロの《焼ける森の中に於ける人物の構成》[026]と《青のファンテージー》が出品された。雑誌図版では知られていたミロの実作を鑑賞する初めての機会となった。
ミロ《絵画》[032]は、工業製品の広告図版のコラージュを別途制作し、それをもとに生命体のようなモティーフを描き込んだ作品。2人の人物を描いたドローイング作品《無題(デッサン=コラージュ:浜辺)》[033]では、右の人物の周囲に水着姿の女性の絵葉書3点を、左人物の胴体に人魚のイラスト(切り抜きの合成)を、それぞれ貼り付けている。支持体には、印刷物の質感との差異を強調すべく、短い繊維を吹き付けた植毛紙が用いられている。《絵画(絵画=コラージュ)》[035]は板の上にアルミニウム紙や写真や針金貼って、絵具や鉛筆で描き込みを加えた作品。表わされた人物は、作品自体に十字に掛けられた麻紐で縛られている。《アンリク・クリストフル・リカルの肖像》[001]でも浮世絵を画面にあしらわれていたが、利用できるものは何でも利用して新しい絵画を制作する意志が窺える。
【Ⅲ:描くことと書くこと】(ミロの作品6点)
「夢の絵画」の1点《絵画=詩(おお! あの人やっちゃったのね)》[039]には茶褐色の画面に、S字の黒い線を複数のトルソのように並べている。画面上部に青い絵具を刷いて、"oh! un de ces messieurs qui a fait tout ça"と描き入れている。数名の人物を表わしたと思しき、タペストリーの原画《絵画(カタツムリ、女、花、星)》[040]には、4つの言葉がフランス語で描き込まれている。画面左の"escargot"の"e"から2度弧を描いて画面右側の"étoile"の"e"に連なり、"femme"と"fleur"の"f"を直角に繋ぐ線に"étoile"no"ét"が交わっている。同じ文字同士がお互いを引き寄せている。結果として、天(étoile)と地(escargot, femme,fleur)、あるいはマクロコスモス(étoile)とミクロコスモス(人物)の照応を表わすのだろうか。詩画集『独り語る』[042]では、トリスタン・ツァラの詩の印刷文字に、記号のような絵を軽快に添えている。「私は絵画と詩とを区別しません。絵を詩句で飾ることもあれば、その逆もまた然り。精神の大家である中国の人々も、そうしませんでしたか?」との言葉をミロは遺している。
【Ⅳ:日本を夢見て】(23点。ミロの作品は9点)
1942年バルセロナのアルゴス書店でジュゼップ・リュレンス・イ・アルティガスの焼き物展を訪れたことをきっかけに、ミロはアルティガスと焼き物の共同制作が行なわれた。アルティガスは中国や日本の陶芸に関心を寄せ、民藝運動の濱田庄司の益子窯に倣ってマシコの名を冠した窯をバルセロナ北郊に開設した陶芸家。2人の共同制作の成果として、紐づくり成形の巨大な壺《大壺》[053]に加え、花瓶[050-051]、「太陽の鳥」が載った《あるモニュメントのためのプロジェクト》[052]、胴の穴と口縁に乗せられた穴の開いた陶板が印象的な《女》[054]が、展示されている。
カタルーニャ語の使用や前衛芸術を禁じていたフランコ政権下のバルセロナで、前衛芸術家を支援する団体ADLANの元メンバーたちは、美術雑誌『コバルト』を刊行していたコバルト出版社の協力を得て機関誌『コバルト49』を刊行し、ミロの個展をライアタナス画廊で開催した。日本に長期滞在経験のあるカタルーニャ人エウダル・セナとセルス・ゴメスが持ち帰った日本の民芸品の展覧会「日本民芸展」も開催している。その展示作品中、大津絵[056-059]、あかべこ[062]などが紹介されている。
【Ⅴ:二度の来日】(36点。うちミロの作品は21点)
ピカソと並びスペインを代表する作家として知られるようになったミロの初の大規模な展覧会「ミロ版画展」が、1962年から翌年にかけて国立西洋美術館などで開催された。1966年には国立近代美術館とその京都分館で絵画・版画・タペストリー・彫刻・陶芸を紹介する大規模なミロ展が開催された(原弘によるポスター[073]、粟津潔によるポスター[072]とミロによる原画[071])。1966年の「ミロ展」に合わせて来日したミロは、ニューヨークで同宿の客であることをきっかけに交流してきた勅使河原蒼風(ミロが初来日より以前に蒼風に贈った作品[069-070])、1940年に世界で初めてミロの単行書[077]を執筆した瀧口修造(ミロと瀧口との交流に纏わる作品[078-082]、[092-094])らと交流した。
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のガスパビリオンのためにミロはアルティガス親子とともに陶板壁画《無垢の笑い》を制作した。その設置のために来日したミロは、同パビリオンのスロープ壁面に即興で絵を描いた。
「Ⅵ:ミロのなかの日本」(ミロの作品9点)
ほぼ同じサイズで、それぞれ地平線のような線と1つの円とをモティーフとしたモノクロームの作品群《絵画》[106-108]をはじめ、日本滞在の経験が影響していると見られる作品を紹介。