展覧会『万物資生|中村裕太は、資生堂と を調合する』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2022年2月26日~5月29日。
1872年、銀座に創業した洋風調剤薬局資生堂の社名は、『易経』の「至哉坤元 万物資生」に由来する。美術家の中村裕太が、資生堂の企業資料に同時代の文献や自作などを組み合わせ、「万物資生」の意味を探る企画。
資生堂では、「万物資生」を「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる。」と解している。ところで、1877年の同社の新聞広告の最上段には大きくドイツ語で「薬局」を意味する"APOTHEKE"と記されている。これは、古代ギリシャ語で「保管庫」を意味する"ἀποθήκη"に由来する言葉である。
そもそも、『ニコマコス倫理学』とは「幸福」(エウダイモニア)を得るための倫理的構想を語った書物です。アリストテレスが幸福への鍵と見なすのが、徳(倫理的なアレテー(卓越性))をいかに獲得するかというテーマでした。彼によれば、徳を基準とすることによって、人間は知的にも道徳的にも、自らの能力を正しく働かせることができます。徳をガイドとして、日々の実践と活動に臨むとき、人間は少々の不幸をものともしない安定的な境地に到れるわけです。
では、人間はどうすれば、徳を獲得して幸福に到れるのでしょうか。アリストテレスの考えでは、徳は人間にあらかじめ備わっているものではなく、あくまでも技術のように後天的に獲得されるものです。それでいて、人間の素質は徳を受容するように先天的に形作られているのです。あえて軽薄なたとえで言えば、人間というハードウェアはもともと、徳というソフトウェアを動かすだけのスペックをもっています。徳は本来、人間の生まれついての性能で十分に動かせるものなのです。それゆえ、あとは徳を正しくインストールし、まめにメンテナンスをすればよいということになります。裏返して言えば、人間側にきちんとした支度がないと、徳も身に付かないということです。(福嶋亮大『感染症としての文学と哲学』光文社〔光文社新書〕/2022年/p.73-74)
人間は先天的に徳を受容するよう形作られ、それを後天的に獲得する。アリストテレスの徳に関する考えを、資生堂の「万物資生」の解釈と組み合わせると、大地の徳を受け容れれば、すべてのものが生まれる可能性を生ずる、ということになる。
「万物資生」について「太陽から来る光線を地上の炭素化合物が受取つて相接して萬物が出来る。故に萬物の發生する物質的方面は地にある。目に見えないつかまへられないものが天から来て、地上の物質がそれを受取つて生物を生ずる」(飯島忠夫『易経研究』)との解釈と、1877年の資生堂の新聞広告の「製藥調劑舗」という言葉に着目した中村裕太は、「万物資生」を「見えないもの」と「地上の物質」を「調合」することによって「万物(生物)」が生まれてくることと捉え、風俗研究などの文献と資生堂の企業資料とを組み合わせることで、「万物資生」の意味を探っていく。因みにアリストテレスの「エウダイモニア(εὐδαιμονία)」は、"εὐ"(良い)と"δαίμων"(調剤師、薬剤師)を語源とするようで、アリストテレスの説く幸福と「万物資生」との間に相同性がありそうだ。
展示の前半は、今和次郎の著作を使って「見えないもの」を可視化し、資生堂に纏わる品々を「地上の物質」として、組み合わせ、「万物資生」を捉えようとする。第1章では、1902年に出雲町店にソーダファウンテンを設置した資生堂について、今和次郎『新版大東京案内』(1929)における「高速度銀ブラ」の記録に、新聞記事(岸田劉生)・広告(「ポマドンヌール」)や錦絵(歌川広重(3代目))などを組み合わせる。第2章では、今和次郎の『装飾様式演習 西洋古代』(1954)などデザインに関する業績を紹介しつつ、資生堂の初代社長が椿を商標に採用し、後に発足した意匠部(小村雪岱も在籍)によってアール・ヌーヴォー調の商標が完成したことを紹介する。第3章では、柳田国男らの「白茅会」に参加したことをきっかけに民家調査に傾注した今和次郎の『日本の民家』(1922)における伊豆大島の記述を導線に、伊豆大島の椿油を用いた資生堂の「香油花椿」を取り上げる。第4章では、道路拡張のために柳の並木が切り倒され、煉瓦敷きの道がアスファルトになるのを残念がった福原信三が制作した『銀座』とともに、小さな温泉場で偶然目にしたブリキ製のランプに目を奪われた経験を記した今和次郎の『民俗と建築』の生地を併置する。第5章では、関東大震災後、バラック装飾社を結成した今和次郎の作例と併せて
川島理一郎が内外装を手懸けた資生堂の出雲町店の仮店舗(設計図)を紹介する。第6章では、資生堂の陳列場で子供服が展示・販売された例を皮切りに、児童雑誌(『コドモノクニ』)や童画など児童文化の興隆を紹介し、他方、郊外に建てた文化住宅と都心の職場とを往き来する職住分離の生活が普及したことを今和次郎自身の住まいを引き合いにして解説する。第7章では、今和次郎と吉田謙吉の『モデルノロヂオ 考現学』の銀座における風俗調査と新聞記事(岸田劉生)、1928年に開店した資生堂アイスクリームパーラー(アイスクリームポット、メニュー、アイスクリームのレシピ)とを紹介する。第8章では、商店が通行人を誘う商業美術の工夫について指摘する今和次郎の記事(雑誌『工芸時代』)とともに、福原信三のデザインの統一に関する考えを反映した山名文夫の作品(「モダンカラー粉白粉」とその色見本、肌の色による化粧品の配色パターン「ビューティーチャート」色)が展示されている。第9章では、資生堂ギャラリーで開催された「新生活美術大2回展覧会」(1941)の案内状に記された「むかしから日本では嶮しい時の中で美を擁護し続けた国民たちがゐた」を紹介し、同展に対する今和次郎の「勤労者の慰楽とは何ぞやという相当困難な課題へ、とにかく突進しようという態度が見られる」との評を取り上げる。「資生堂過酸化キューカンバー」の緑色のガラス容器は「SHISEIDO PEROXIDE CUCUMBER」と全て英文表記。だが物資不足のため、そのガラス瓶の回収が促される時代であった(同製品の新聞広告)。以上9つのセクションそれぞれに、今は失われたモノを補うべく、中村裕太の手になる素焼き(ソーダ水のグラスやアイスクリームのカップなど)が、復元された土器の欠損部分を補う石膏のように添えられている。
展示の後半は、前半の考現学の今和次郎からの繋がりで、路上観察学会の主要メンバーであった赤瀬川原平を取り上げる。第七次椿会に参加した赤瀬川が資生堂ギャラリーに展示した、既製品の椅子2脚とテーブル1台の表面を鉈で削った《ハグ2》に、中村裕太が素焼きで作成した、赤瀬川の愛用のマグカップと中村の私物のコップの写し(椿油作成時の椿種子の絞りかすから調合された釉薬がかかる)を併せて展示している。
展示の最後では、中村裕太による焼き物の「写し」が展示されている。そこでは積極的に「うつす」、すなわちまねぶ(学ぶ)動作がある。それに対し、冒頭に掲げられた、「万物資生」に関する飯島忠夫の解釈である「目に見えないつかまへられないものが天から来て、地上の物質がそれを受取つて生物を生ずる」には、「目に見えないつかまへられないもの」が「地上の物質」へとうつる(移る)運動が見られる。そこにはうつすという能動(態)的な挙措ではなく、「目に見えないつかまへられないもの」が(中動態的に)巻き込まれていく過程のように見える。そして、続く本展の展示は、資生堂の創業以来の社会がうつる(移る)様子を見せるものである。鑑賞者は目にうつる(映る)展示品や解説によって、社史と社会史とに巻き込まれていく。本年は、子供と大人との境界線がうつり(民法改正による成人年齢の引き下げ)、ロシアは国境線をうつそうとウクライナに侵攻した。もとより、感染症がうつること、あるいは感染症をうつすことを恐れて暮らす日々の最中でもある。展示会場の随所に置かれた中村裕太の素焼きは、何かがうつるのを待つ器であるが、それらを目にうつす鑑賞者もまた何かがうつるのを待つ器である。