可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村裕太・ユアサエボシ二人展『耽奇展覧』

展覧会『中村裕太・ユアサエボシ「耽奇展覧」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2023年1月28日~3月31日。

江戸時代後期の好事家たちが珍奇な古書画や古器物を持ち寄って論評しあった「耽奇会」の図譜『耽奇漫録』に触発され、「耽奇なるもの」として、中村裕太がヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』などに着想を得た陶器を、ユアサエボシが骨董品をモティーフとした静物画を提示する企画。

ユアサエボシは《土人形》で双眼鏡を手にした「乃木大将」の土人形を描く一方、《飾り駒》では「大将」駒だけを倒せる軍人将棋の「スパイ」駒(目のイメージ)を描く。これは見る立場と見られる立場が反転可能であるとともに、見ることは見られることでもあると訴えるものである。視覚による世界の認識をテーマにしていることが分かる。そして、染付の壺の茸のような植物とそこから延びる胞子状のものを描いた《変生草》のテーマは別のものに生まれ変わることであり、その可能性は、原子力マークを胴に描いた炻器《原子壺》において、原子レヴェルのミクロな認識によって、人と世界とを一元的に捉えられることによって示される。

 火葬場で人間の身体が焼かれても、実は消滅はしないのです。我々の身体は全て原子でできていると前に話しました。火葬場で焼かれる時、原子同士の結びつきである分子レベルでの解体は行われますが、そのことによって我々の身体を構成する原子そのものが壊れることはありません。もちろん消滅もしない。我々の身体をつくっていた原子は煙の中で空中に拡散していきます。つまり、この地球上に常に存在し続けるのです。
 そしてその原子達は、再び誰かの身体の構成物に成り得る。空気中で何かの原子と結びつき、何かの分子になり、再び生物に取り込まれ、誰かがその生物を食すことによってまた人間の構成物に成り得る。(略)
 地球が誕生して以来、そこにあったあらゆる原子は消滅していない、と考えられています。原子の中の原子核を破壊するためには、宇宙空間での何かの特殊な状況においてか、粒子加速器など特殊な機械を使わなければなりません。だからこう言いかえることができる。いわば人間の身体の構成物は、大昔から使い回しであると。当然二元だけではありません。あらゆる生物、あらゆる物体を構成しているものは、遙か昔からの使い回しなのです。こう見ていくと何だかすごいと思いませんか? 我々の今の身体の中には、かつての様々なものを構成していたものが入っている。何か静物画誕生する時、それは無からここに出現するわけではないのです。元々この宇宙や地球にある材料が組み合わさり、元々ある材料を取り込みながら大きくなっていくだけなのです。(中村文則『教団X』集英社集英社文庫〕/2017/p.138-139)

中村裕太《イソギンチャクとヤドカリの受け皿》は、紅茶のカップに把手が取り付けられたことで、ソーサーが飲むための皿からカップの受け皿に変わったとの小野二郎『紅茶を受皿で』の指摘と、ユクスキュル『生物から見た世界』のヤドカリにとってイソギンチャクが防御壁となったり、住み家となったり、食べ物となったりするとの解説(図版を伴う)とを組み合わせて発想された陶のオブジェ。カップとソーサーに、もう1つの器を加えることで、カップとソーサーの関係性を変容せしめるが、それはヤドカリとイソギンチャク(の図版)の見立てとなっている。
中村裕太《イソギンチャクとヤドカリの受け皿》のカップの把手は小さな壺と癒着させられている。それは、「クラインの壺」に変成しようとしているように見える。

(略)クラインの壺は、向き付け不可能な面でもある。つまり、1つの通常のベクトルを定めるのに必要な一貫した体系を規定することを不可能にする、二次元の多様体である。堅苦しくない言い方をすれば、これは1つの側しかもたない面であり、その上を歩いて行くと、ひとは逆さまにひっくり返って元の場所に戻って来るのである。そのようなものであるクラインの壺には、内部も外部もない。そしてそれは、穴(これを三次元のかたちにして想像することは出来ない)を現前させることなくみずからのなかを通過しなければならないため、四次元空間においてしか物理的に実現されない。(スラヴォイ・ジジェク中山徹・鈴木英明〕『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー青土社/2021/p.306-307)

中村はイソギンチャク以外にも、《コクマルガラスの扁壺》においてコクマルガラスコクマルガラスを咥えたネコを攻撃するのは、黒いものに反応しているに過ぎず(コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環 動物行動学入門』)、《ハエにとっての平皿》においてハエにとって対象物の作用トーンは限られてしまう(ユクスキュル『生物から見た世界』)など、生物(種)ごとの世界認識の相対性をテーマにした陶器を提示している。《イソギンチャクとヤドカリの受け皿》の「クラインの壺」への変容は、三次元空間に生きる人間の認識の有り様ないし限界の乗り越えを訴えているのではなかろうか。《ウニの瓶詰》において、赤瀬川源平が蟹の缶詰を裏返して封をすることで宇宙を閉じ込めて見せようとしたのを引き合いに出していることも証左となろう。なお、ユアサエボシが《大砲のある生物》において、大砲の砲身を這う2匹のカタツムリを描いている。人が「クラインの壺」を歩くと「逆さまにひっくり返って元の場所に戻って来る」ことのメタファーとなっていると言えよう。