可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『とりどり 九州産業大学日本画展』

展覧会『第18回大学日本画展〈九州産業大学日本画展〉とりどり』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2023年5月20日~6月4日。

自らの中に拡がる宇宙をモザイク的に表現する阿部慶樹、メタモルフォーゼによる生命の連関をポップに表わす田中綾、希望の薄明かりに浮かび上がる女性像を繊細に描く宮下舞香、人物の印象を記憶のままにダイナミックに提示しようとする渡邊千尋の4人の絵画を展観。

宮下舞香《窓辺にて》は、カーテンの隙間から窓越しに外を窺う女性の姿を横から捉えた作品。灰色の濃淡で明暗を表現したモノクロームの画面は、仄かに挿された赤味がアクセントになっている。女性に外出自粛を求められたコロナ下の人々の姿を重ねることは容易である。丸まって寝転がる猫を描いた宮下舞香《ごろん》もまたパンデミックの状況下、室内で過さざるを得なかった人物の寓意と解することができよう。それならば、薄暗い部屋でベッドに横たわる女性が薄明に目を覚ます宮下舞香《夜明け前》は、パンデミックを象徴する夜が明ける様を描くのであろう。ところで、室内で過す時間が長くなると、眼差しは自然、室内へ、そして自己に向けられる。宮下舞香《心海》でカーテンの掛かる窓辺の椅子に坐る女性が、足元の水面に足を浸そうとしているのは、自分の心の奥底に沈潜しようとしているためであろう。彼女が水面に視線を送ることは、水鏡に映る自己の姿を見詰めることに等しいのである。

田中綾の《タコ》は蛸壺の蛸を描く。画面上部の赤い画面に表わされた青い蛸と、画面下部の黒い蛸壺の中の髑髏のような灰色の蛸とが鮮烈な対照をなしている。とりわけモノクロームで表現された蛸壺の蛸は、コロナ下で住居に閉じ込められた人々の孤独、あるいはそこで行われたドメスティック・ヴァイオレンスの悲惨を寓意として描き出したようである。あるいは、人々がネット環境に沈潜し、自らの狭い関心領域だけに自足していることの可視化であろうか。田中綾の《暮らし》もまた、画面上部の人々が手を繋ぐカラフルでポップな世界と、煙突からの煙が流れる無人モノクロームの世界とが対照的である。レゴブロックのキャラクターのように単純化された2人の人物が手を繋ぐ状況は、2人の人物が画面外の別の人物の手と繋がれ、さらには上部にも繋ぎ合わされる手が覗いていることで、無限の連鎖として表わされる。一種の曼荼羅であろう。白のシルエットで表わされた植物が2人の人物の前を横断するのは、人々が並び手を繋ぐ姿と相俟って、生命の連関を表現している。そして、その花が蝶に変化して画面を飛び回るのは、あらゆる生命が同じもの(からの変化)であることを訴える。右隣に展示された本作のエスキースによって、当初蜻蛉であったものが蝶に変更されたことが分かる。蝶への変化は「胡蝶の夢」を介し、区分された複数の世界の存在とメタモルフォーゼによる相互の世界への通行を表現するためであろう。それは《タコ》の蛸壺が象徴する分断された世界を接続するテクニックにも成り得よう。

渡邊千尋は《backyard》において人物の姿をモザイクとして表現する。細かな正方形の組み合わせとなった人物は、デジタル画面のイメージである。とりわけパンデミック下においては、コミュニケーションがネットを介して行われ、風景は多分に画面越しの映像となったことを象徴するのだろう。また、渡邊千尋は、《night》や《groung》において、夜間、グラウンドでサッカーに興じる人たちが照明に照らし出される姿を描き出す。とりわけエスキースにおいては、投光器の光によって浮かび上がり、網膜に人物の動きが残像として煮え付く様が巧みに表現されている。

阿部慶樹は自画像である《29(twenty-nine)》において、十二支、十二星座、五神(≒五行)によって表わされる宇宙(マクロコスモス)と自らの身体(ミクロコスモス)とをアトム的な微細な幾何学的部分の繰り返しによりモザイク状に描き込むことで繋いでみせた。一種の曼荼羅である。内部に無限を探ろうとする試みは、阿部慶樹《無限大》においてもなされている。それらに共通するモザイク状の細密描写は写経に通じるものがある。他方、阿部慶樹《楽園》では升目描きで知られる若冲《鳥獣花木図屏風》を自己流に解釈することで絵画の伝統との接続を試み、門司港駅の駅舎と列車のプレートとを並べた阿部慶樹《門司港の夜空》では鐵路の起点の図案的表現に仮託して始原からの連続の寓意としている。阿部慶樹《4年間の歩み》でヴァイオリンを演奏したり絵画を描いたりする自らを1枚の画面に収めるのも、時間の流れの中に自己を位置付けることで、結局は宇宙との繋がりを表現していると言える。