展覧会『中村直人 モニュメンタル/オリエンタル 1950年代パリ、画家として名を馳せた“彫刻家”』を鑑賞しての備忘録
目黒区美術館にて、2023年7月15日~9月3日。
中村直人(1905ー1981)の回顧展。彫刻家として活躍した前半生を紹介する第1章「彫刻家の弟子から院展へ」及び第2章「従軍時代 ―時代の記念碑として」と、藤田嗣治の勧めによりパリに渡って絵画に手を染めて以降の画家としての後半生を紹介する第3章「パリのオリエンタル」及び第4章「帰国後のナオンド」とで、中村直人の芸術を通覧する。中村直人 手品師 1932
【第1章:彫刻家の弟子から院展へ/第2章:従軍時代 ―時代の記念碑として】
1920(大正9)年、山本鼎の紹介で木彫家・吉田白嶺の木心舎に入門。吉田白嶺《若衆》(1927)[014]に倣った《若衆》(1931)[013]を隣に並べ師弟関係を明らかにする。併せて、後年の作品《翡翠》(1977)[010]も吉田白嶺《翡翠》(不詳)[009]に酷似しており、生涯に亘って師の影響下にあったことが示される。
白嶺と親しかった小杉放菴(《寒山子》(1920頃)[023]・《雨》(1920頃)[024])が木心舎で指導に当たった。「構図にだけはうるさく、他は何も言わなかった」。
1926(大正15)年で院展に初入選。1935(昭和10)年には院展の同人に推挙され、彫刻家としての地位を固めた。
マリアに抱かれた幼いイエスが両腕を拡げ十字を作る《聖母子像》(1932) [002]では、マリアの衣服の衣紋がすっきりと表わされている。同年制作の、《手品師》(1932)[005]で青年の身体に描き込まれたダイヤ柄と対照すると面白い。手品師は、胸の前で腕を組む純朴な青年して表わされ、衣服のダイヤ柄以外に手品師らしき特徴を示すものは何も無い。種も仕掛けもない、トリックを仕掛けそうにないという風貌こそ手管なのだろう。
1937(昭和12)年、日中戦争に際して通信員として天津、北京、山西省などを廻る。雑誌・新聞に向けた絵とともに《大同雲崗鎮石仏》[022]など現地の風景・風俗をスケッチした。
帰国後、戦意昂揚のための作品を制作。レリーフ《暁の進軍》(1938)では、3頭の馬の頭部が右から左へと円弧を描くように配され、かつ左端の馬の鬣の円弧が相似をなし、左方向への運動を感じさせる。《草薙剣》(1941)[033]は日本武尊の像。左手を地面に垂直に延ばすことで日本武尊の身体の垂直の姿勢が強調される一方、右腰に差した草薙剣が身体に対して直交する(地面と水平になる)堅固な姿勢をとる(ここにも十字がある)。右足をやや前に左足をやや後ろに配した点が安定を僅かに崩し、動きを生み出す。
1942(昭和17)年、朝日新聞に獅子文六が実名の岩田豊雄で連載した『海軍』の挿絵[035-036]を描き、広く認知される。
【第3章:パリのオリエンタル/第4章:帰国後のナオンド】
戦前の活躍は、終戦後に戦争協力者として糾弾される結果を招く。江古田で近所の縁で親交を深めたから藤田嗣治(《赤毛の女》[064]・横たわる裸婦[065]・《人形を持った少女》[066])から誘われ、47歳でパリに渡った。滞在先の狭い部屋での彫刻制作は困難であったため、絵画に手を染める。グアッシュ(不透明水彩絵具)で描いては揉み、また描いては揉むという手法を編み出し、罅割れから覗く下層の絵具が独特の趣を添えた作品を制作した。
《[仮題]笛を吹く女》(1952-64)[055]には正座して細い横笛を演奏する着物姿の女性が描かれるが、緑色の肌、長い首、吊り上がった鋭い目、触手のような手(近くに《烏賊》[048]が展示されているからそう見える?)が目に焼き付く。《大原女》(1956)[056]や本展のメインヴィジュアルに採用されている《ジャポネーゼ》(1950年代)[054]などでも首の長い赤い肌の女性にインパクトがある。
パリで画家として成功し、1964(昭和39)年に帰国。銀座松屋で開催した「滞仏絵画展」が評判をとり、亡くなるまで絵を描き続けた。
例えば、母子とピエロ、白馬を描く《ピエロ一家》(1954)[051]は同じモティーフ・同題で後年にも描かれているが(《ピエロ一家》(1976)[111])、晩年の作品はより温和である。やはり独特の雰囲気を漂わせる作品が並ぶ第3章「パリのオリエンタル」が本展の白眉だろう。