展覧会『1930ローマ展開催90年 近代日本画の華―ローマ開催日本美術展覧会を中心に―』を鑑賞しての備忘録
大倉集古館にて、2020年8月1日~9月27日。
1930年にローマで開催された「日本美術展覧会」の出展作品を中心とした日本画の展観。
第1章「描かれた山景Ⅰ~日本の里山~」では日本画5点(そのうち「日本美術展覧会」出展作品は、荒木十畝《晩秋》、穴山勝堂《桂川の秋》、川合玉堂《秋山懸瀑》の3点)が、「第2章:描かれた山景Ⅱ~モノクロームによる~」では日本画5点(そのうち「日本美術展覧会」出展作品は、横山大観《山四趣》の1件4点)が、第3章「美の競演~花卉・女性~」では日本画6点(そのうち「日本美術展覧会」出展作品は、山口蓬春《木瓜》、大智勝観《梅雨あけ》、三木翠山《鏡》、伊東深水《小雨》、横山大観《夜桜》の5点。なお8月中は《夜桜》の代わりにやはり同展に出展された鏑木清方の《七夕》を展示)が、第4章「動物たちの姿~生命の輝き」では日本画8点(そのうち「日本美術展覧会」出展作品は、竹内栖鳳《蹴合》、宇田荻邨《淀の水車》、橋本関雪《暖日》・《猿猴図》、橋本静水《桃に鳩の図》、小林古径《木菟図》の6点)が、それぞれ展示されている。また、「日本美術展覧会」のポスターや図録、記録写真なども併せて紹介されている。
昭和5年(1930)年4月、ローマで同時代の日本画を多数展示する日本美術展が開催された。そもそもは、ムッソリーニ首相の肝いりでイタリア政府から開催希望があったと伝えられる。日本画では実業家大倉喜七郎男爵がスポンサーとなって後援したことで、院展、帝展の代表的日本画家たちが力作を送り出して歴史的な展観となった。大観は大倉に頼まれてこの展覧会の総指揮を執ることになり、これに川合玉堂と竹内栖鳳が加わった。(略)
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日本画の本領を〔引用者補記:活け花などの設えをした床の間や青畳等の会場で〕西洋人に伝えたい。そのために大倉男爵は、日本から資材を輸送し、大工6人と表装師2人、華道家を派遣し、2か月をかけて床の間や畳敷きの展示台をともなう会場施工をさせた。総出品数は177点にも及ぶ大規模なものとなった。日本画の本領を示すという目的のために、出品作品はすべて掛け軸や屏風装で送り出された。
大観は、この展覧会に《夜桜》《瀟湘八景》《山四趣》など連作を含めて計15件を出品する熱の入れ方だった。(略)
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当時、ローマに出現した一群の日本画が、〔引用者補記:フィレンツェの新聞『ラ・ナチオーネ』紙上で〕全体として古典主義の色合いを帯びて見えていたということは注目すべきである。伝統を重んじる日本画はイタリア側からはナショナリズムという観点から受け入れられた面があり、日本側にもその意識が十分にあったとみてよい。イタリアがムッソリーニ首相によるファシスト政権下にあったという当時の政治状況からいって、お互いの伝統主義あるいは古典主義に共通性があると見なすことは、文化交流の面でも両国にとって意義あることだったのである。大観は総裁として開会式に列席したムッソリーニ首相を会場で案内し、ほとんど文化大使的な役割を果たした。
このローマ展は、16万人以上の観覧者を集めて大成功をおさめた。大観は前述の報告書〔引用者註:「祖国へ復命の辞」『伊太利政府主催大倉男爵後援羅馬開催日本美術展覧会に就て』〕を「古は、西で『世界の道は羅馬へ』でありましたが、これからは全地球に就いて『世界の美術は日本画へ!』向ふのであります」と締めくくっている。この展覧会の開催と成功は、政治的には同じく民族主義と帝国主義へと向かう両国の外交的な関係強固を印象づけた。また、横山大観という画家が日本国を代表し、日本画界を統率していく役割を担っていくことが明瞭となった国際展であった。(古田亮『横山大観 近代と対峙した日本画の巨人』中央公論新社〔中公新書〕/2018年/p.146-151)
横山大観の六曲一双の屏風《夜桜》(1929)は、松樹の林立する中、右隻と左隻に1本ずつ桜樹を描く。花と同じくらい多くの赤味を帯びた若葉が描かれているので、古来親しまれてきたヤマザクラである。樹木に対してかなり比率の大きな同形の花が全て鑑賞者の側に向かって咲いている。その姿を浮かび上がらせるために右隻に2基、左隻に5基の篝火が焚かれてている。赤い炎は松葉の緑に映える。背景は山の陰が覆い尽くすが、わずかに夜空も見え、満月が顔を覗かせている。右隻2扇には桜樹の根元が描かれるが、これより左手には木々の根元は見えない。木々の中に一人鎮座する人物を描く右隻と大胆に広く余白を配した左隻との落差によって眺望を生み出した下村観山《小倉山》(1909)ほどではないが、右隻から左隻へ向けての画角の変化が左方向への空間の広がりを感じさせる。
大観との思い出について語った文章によると、大観は制作にあたって上野公園に夜桜の情趣を見に出かけた。その時、五重の塔を囲んでいた山桜が印象的だったようである。そうして制作の第一日目は、夜空のわずかな部分を除いて、ほぼ全面を占める夜の山を濃墨に塗り、下には青金泥をぼかして塗った。翌日には、焼墨で桜と松、篝火の位置を描き起こし、三日目には桜の花の胡粉を塗り始めたが、この多くの桜を描くのに苦心したようである。ようやく描き終わって感想をきくと、桜ではなくつつじに見えると言われ、はなの雄しべと雌しべを描き加えた。しかし、再び紙を張り替えて、さらに約2ヶ月をかけて描き直したのが本作品である。
プラチナの月が照る群青の空、丸みを帯びた山の暗闇を背景に、満開の夜桜と松の木がまばゆりばかりに明るく照らされている。まろやかな山の輪郭が際立つように、面蓋(色を塗ろうとする面とは反対側に形をとった紙を貼り、その上まで色を塗り、あとから紙を剥がす技法)で描いている。また、緑青を黒くなるまで焼いた顔料を山の上部に塗り、空の群青と釣り合いがとれるように量感を出すなどの工夫をしている。黒く煙をあげて燃え盛る篝火の勢いからは、制作に5ヶ月もかけた大観の意気込みが伝わってくる作品である。(柏木聖子「夜桜」国立新美術館他編『没後50年 横山大観―新たなる伝説へ』朝日新聞社/2008年/p.182)
本展の作品解説では、桜花の表現に鈴木其一《朝顔図屏風》の朝顔との類似を指摘していたが、松の樹形の反復には尾形光琳の《燕子花図》を想起させるものがある。そのような琳派的装飾性と同時に存在するのが、花・葉・幹などに見られる緻密な描写である。
《夜桜》は、(略)院の同人で、大観とは特に親しかった冨田溪仙の同題の先行作品に触発されて制作されたことが知られているが、造型の問題としては、速見御舟との関連性について注意を払うべきであろう。この作品には、装飾的画面構成に加えて桜花の陰影を帯びた表現などには意外なほど写実的な要素もあることが指摘できるからである。この装飾性と写実性の融合は、同時期の速見御舟の仕事を抜きにして語ることはできない。
御舟は、大正6年(1917)の再興院展に出品した《洛外六題》が、他ならぬ大観の激賞されて同人に推挙された作家だった。しかし、その3年後の大正9年(1920)の再興院展に出品した《京の舞妓》と《比叡山》の2点は、その徹底した写実表現によって物議をかもした。舞妓の着物の繊維の1本1本、あるいは畳の目の一つひとつまでも克明に描写する御舟の作品に対して、大観は理解を示すどころかあからさまな嫌悪すら表して、御舟を除名にするとまで言い出したのである。岸田劉生の「内なる美」に触発されて登場した御舟の細密描写は、まさに大正というう時代が生んだ表現の自由を具現化するものであったが、大観にはそれが自由とは映らなかった。若い世代の中心的な課題となっていた写実主義は、この時の大観にとっては自らがかつて格闘した朦朧体の実験と同じようには感じられなかったのである。
ところが、その後の御舟の躍進ぶりには、大観も納得し感心せざるを得なかった。御舟は、自らの革新的な写実表現をいかに乗り越えていくかを真摯に模索し、実践した。写実を基礎にしながら、そこに古典的造形要素と象徴性をあわせ持つ《炎舞》(大正14年)、琳派風を加えていった《翠苔緑芝》(昭和3年)、そして《名樹散椿》(昭和4年)にいたる御舟の自己革新は、写実と装飾の融合とううきわめて困難な課題への挑戦だった。大観の夜桜は決して御舟の跡を追うものではないが、少なくとも《炎舞》と《名樹散椿》がなければ生まれなかったということは言えるだろう。(古田亮『横山大観 近代と対峙した日本画の巨人』中央公論新社〔中公新書〕/2018年/p.127, p130)
《夜桜》の桜の花は日本という帝国、そして国を自己と同一視した国民を表す。その花が本来よりも大きく表されているのは膨張主義であり、自己肥大であろう。また、空間が左へ向けて広がっていくのは、大陸進出を示唆する。さらに、花が全て同じ向きに向かって咲いているのは、全体主義の象徴だ。