可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『東京モダン生活 東京都コレクションにみる1930年代』

展覧会『建築をみる2020 東京モダン生活 東京都コレクションにみる1930年代』を鑑賞しての備忘録
東京都庭園美術館にて、2020年6月1日~9月27日。

東京都庭園美術館本館として利用されている旧朝香宮邸の建物(1933年竣工)そのものを調度品とともに見せる恒例企画に合わせ、新館展示室で行われる、1930年代の東京をテーマとした東京都のコレクションの展示。

鹿子木孟郎関東大震災の焼け跡を進む人々を描いた《大正十二年九月一日》など被災地を描いた絵画・スケッチや、震災後の街路計画図、バラック装飾社の活動などを紹介する「第1章:関東大震災とその復興」(絵画・書籍など計22点)、1926年に岡田信一郎設計の建物で開館した東京府美術館を紹介する「第2章 東京府美術館の開館」(写真、便殿の家具など計10点)、絵画・版画・写真・雑誌その他の印刷物(楽譜や雑誌などの付録の双六などを含む計67点)によって1930年代の都市風俗を紹介する「第3章:都市の様相」、洋装・断髪で新しい時代の到来を体現した「モガ」と呼ばれた女性たちを紹介する「第4章:東京のモダンガール」(絵画・写真・衣服など計13点)の4章(総数112点)で構成。

 1930年代に東京は〈大東京〉になった。〈大東京〉とはまず地理的にいうと、「日本帝国の首府東京市とその周辺の諸町村即ち15国84ヵ町村を含む。」(『日本地理風俗体系』第2巻「大東京篇」)
 東京市は15区で、渋谷、目黒、品川などはまだ区外である。しかし、急激に膨張し、将来は周辺の町村を含む首都圏が都市計画をして設定されることとなった。1920年から都市計画法が施行され、1922年4月、都市計画地域が設定された。それは東京駅を中心都市、半径15.7キロ(4里)の円内の区域であった。
 ところが1923年の関東大震災により、東京は壊滅的な被害を受け、あらためて最初から都市計画をやりなおさなけれればならなかった。特別都市計画法、特別都市計画委員会がつくられ、なんとか1930年に、帝都復興が完成したとして、復興祭が行われた。最初の計画からすると不十分なところもあったが、ともかくこの時、〈大東京〉が出現した、とされている。
 1930年前後に、〈大東京〉が姿を現す。1930年代は〈大東京〉の発展期ということができるだろう。
 〈大東京〉の中心は、東京駅であり、その周辺の丸の内である、鉄道や道路が東京駅を中心とするネットワークとして整備される。丸の内は、高層ビルが林立する〈大東京〉のファサードとして視覚化される。
「6層7層の白亞或は煉瓦の建築は、アスファルトの砥の如き道路を隔てて、両々相対峙し、欧米の大都市もかくやと思われるほどのモダーン風景を、出している」(前掲書)
 まっすぐで広い道路が開通し、路地によって仕切られていた町々をつぶしてしまう。丸の内や銀座は、町名が消され、一丁目、二丁目……といった区画に整理されてしまう。しかし古い町名をなつかしむ人も多く、銀座四丁目の交差点は、ずっと後まで、尾張町交差点といわれていた。
 (略)
 東京とはなにかが全体的な視点から眺められ、東京案内が書かれるのである。
 それは、ことばと写真によって紹介される。すでにのべたように、視覚的なファサードを持ったことが1930年代東京の1つの特徴である。それは肉眼によって見られるだけでなく、写真によって、複製化される。どこにでも持って行ける小型カメラ、一瞬をとらえるレンズや高感度フィルムによって、都市の目まぐるしい姿が撮影される。(海野弘「大東京の出発・1930年代」東京都庭園美術館編『開館25周年記念 1930年代・東京 アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代』東京都庭園美術館/2008年/p.9-10)

1930年代の都市生活を描き出す展示の冒頭に「第1章:関東大震災とその復興」が置かれているのは、新しい生活様式をもたらす契機として、1923年の関東大震災があったからだ。家屋の倒壊に加え下町を中心とした火災によって江戸時代以来の街の姿が失われ、新しく立ち現れた都市景観を背景に、人々のモダンな生活が営まれた。「東京復興計画一般図」[018]には下町を中心に新しい道路網が赤色などで描き込まれており、市街の変貌を鮮やかに示している。
川上澄生が描いた《新東京百景:銀座》[058]は鮮やかなピンク色で表された街並みを書割に2人のモダンガール(モガ)を中心に街を行く人々を描く。銀座煉瓦街は震災により失われ、銀座を銀座たらしめているのはモガだと、あるいはモガこそが「ぎんざ」の記号だと宣言するような作品である。

 ある日、清沢〔引用者註:清沢洌。外交評論家。『モダンガール』の著書あり。〕は偶然、ひとりのモダンガールと電車に乗り合わせた。女性は帯をしめた和装の人である。モダンガールが洋装とはかぎらない。たとえば当時(1930年)のある写真が四人のモダンガールの姿を伝えている。洋装は三人、和装が一人、写っている。その一人は振り袖で蛇の目傘をさしている。あるいは三人のモダンガールのうち、二人が和装の写真もある(読売新聞社編『目で見る昭和の60年 上巻』)。清沢がモダンガールに遭遇した時、その女性が和装であっても不思議はなかった。
 具体的な数字がある。1926年12月2日に資生堂がおこなった銀座を歩く人服装調査によれば、和装の女性494人に対して、洋装の女性はわずか22人だった。2年後の11月、三越正面での調査でも、女性の和装84パーセントに対して洋装は16パーセントに止まっている(北岡伸一『日本の近代 5』。洋装の女性がきわめて少数であり、そのなかのモダンガールは、例外中の例外的な存在だったことが数字のうえで確認できる。
 モダンガールが例外的な少数派だったことは、服装以外からもわかる。1930年4月9日の銀座の通行人調査のデータがある。これによると、調査の対象となった767人の男女比は、598対148人(こども21人)となっている。女性だけの二人連れ23組、家族連れを含む男女三人連れ以上が50組、モダンガールはこのなかの一部だったと推測できる。同調査によれば、「春の銀座の夕ぐれに於ては、孤独の散歩者が第1位を占め、男女二人連れこれに次ぐ状態」だった(『考現学採集』〔引用者註:本展において、『考現学採集』のうち、モダンガールの丸の内の散歩コースを研究した部分[039]が展示されている)。
 (略)
 奇妙な装いのモダンガールに戸惑いながらも、清沢が彼女たちを肯定的に評価していたことはよく知られている。清沢の日本社会批判は、女性の隷属的な地位を問題視する。アメリカ滞在経験が長い清沢にとって、アメリカの女性との比較から、日本の女性の社会的な地位の低さは、何とかしなくてはならなかった(北岡伸一清沢洌』)。
 清沢はアメリカを模範として、日本の女性の地位向上を論じる。モダンガールとは、清沢にとって、女性の地位向上を推進するリーダー役だった。それゆえ清沢はモダンガールが大体に教育ある大学生などの間に生まれたもの」だからである。
 清沢にとってモダンガールとは、要するに「職業婦人」のことである。「カフェーの女などによって、変態的な姿を現わしたことは決して名誉あることではない」。
 そうは言っても、当の清沢は眼前のモダンガールに対して「不全貫通をおかしていた」と告白する。清沢にかぎらず、男性は自己に都合よく性的放縦のイメージをモダンガールに重ね合わせていた。
 清沢がどれほど女性を社会階層別に区分したところで、モダンガールはモダンガールだった。欧州大戦後の国際的な社会思潮は、自由の持つ両面を日本にもたらした。別の言い方をすれば、たとえば自由には女性の性的自立と性的放縦の両面があった。あるいは日本をふくむ戦後世界において、どの国の社会も進歩と退廃の二つの特徴を併せ持つようになっていた。
 (略)
 新感覚派(前衛芸術の流れを汲む、都市のモダニズム文化のなかで生まれた実験的な小説の作家グループ)の片岡鉄兵は、1927年刊行の『モダンガアルの研究』において、モダンガールを力強く肯定する。
 (略)
 〔引用者補記:男性の模倣であったために失敗した青鞜社の運動に〕対するモダンガールは「男性生活の模倣に非る女性自身の生活創造に向って手を染めて居る」と片岡は賞賛する。片岡が指摘するモダンガールの特徴は、「比較的自由に恋愛を享受し、比較的に物質家である。比較的に精神的でない」ことである。「彼女の表現する所は物質至上主義でさえ有り得る」という。この一文からわかるように、モダンガールの登場の歴史的な前提は、女性がモダンな生活を送ることを可能にする、大衆消費社会の形成だった。
 (略)
 要するにモダンガールは、片岡によれば、「輝かしき機械文明の精華のうちに花開く女性文化への創造」をめざしていた。
 片岡にとってモダンガールは時代精神の象徴である。特定の「職業婦人」のことを指すのではない。片岡は言う。「現代のあらゆる婦人が、共通に、或者は濃厚に又ある者は極めて微弱に、程度の差こそあれ、誰も彼もが持って居る型、性格、生活であるに過ぎない。即ち、あらゆる女が、今日はモダン・ガアル的な要素を持つのである」。すべての女性がモダンガールとして、新しい文化を創造する。昭和はこのような期待とともにはじまった。(井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』講談社講談社現代新書〕/2011年/p.67-71, p.74-76)

『現代漫画大観 第9編 女の世界』[109]に収録された漫画は、「初めて洋装した新モガ、ショウヰンドに己が姿を映し見て、得意満面獨り微笑む」(106頁)、「忽ち孔雀王の如き本場の西洋婦人に出合ひ、蔑視の眼に忽ち青菜に塩」とモガを揶揄するものである。大久保好六のスナップ写真《街頭の近代色。所謂モガ》[043]の短髪女性は和装ではあるが、極めて洗練されていて現在の視点で評価してもなおファッショナブルである。モガに相手にされない哀れな漫画家の怨恨が生むミソジニー、しかも西洋人の威を借りなければ攻撃できないメンタリティー桑原甲子雄が撮影した日本橋交差点売店[049]の雑誌などの表紙に踊る文字にも表出されている)に、日本男性が導いた帝国日本の行く末がまざまざと表れている。100年前の話で終わらないのが恐ろしい。