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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』

展覧会『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』を鑑賞しての備忘録
東京都庭園美術館にて、2019年1月26日~4月7日。

1950年から56年にかけて制作された岡上淑子のコラージュ作品を紹介する企画。

 

本館は第1部(マチネ)と題し、岡上淑子の全貌を6章で紹介する。
ファッションを学び、海外のファッション誌を切り抜いてコラージュを制作したことに因み、作品とともにクリスチャン・ディオールやクリストバル・バレンシアガのドレスが合わせて展示される「Ⅰ.岡上淑子とモードの世界」、無地の背景にモティーフを配した1951年~53年制作のコラージュを紹介する「Ⅱ.初期の作品」、美術評論家瀧口修造に見出されて活躍の舞台が用意されるとともに、シュルレアリスムなどの表現に影響を受けたことを紹介する「Ⅲ.滝口修造マックス・エルンスト」、洋裁の制作への影響を紹介する「Ⅳ.型紙からフォトコラージュへ」、写真や水彩といったコラージュ以外の作品を展示する「V.コラージュ以降」、作品が掲載された雑誌や童話を掲載した新聞などを並べた「Ⅵ.その他関連資料」である。

冒頭、大広間には《幻想》が掲げられている。シャンデリアの下がる豪勢な洋間に馬の頭部を持つ女性が横たわり、3頭の馬が配された作品である。旧朝香宮邸である本館の大広間は、華美な装飾が避けられシャンデリアもないが、鏡とマントルピースが《幻想》の舞台に通じる空間だ。だが《幻想》1点のために視界を遮るような巨大な三角形の柱が置かれいた。一体何故なのだろうか。
小客室では本展のタイトルにも採用された《沈黙の奇蹟》が展示されている。公園で数頭の犬を引き連れた女性に頭部はなく、上空からパラジュートが舞い降りてくる作品である。ここでは合わせて岡上の詩も紹介されている。
Ⅱ(禁煙室)で紹介されている初期作品の《脚》は煙突を胴体であり脚と見立て、顔や手をそこに配している。人を「柱」に見立てる大胆さに、焼け野原で目にしたかも知れない遺体(=柱)となった東京を見た経験が影響しているのか。眼球から脳へのびる神経を模したような目・線・円・菱形を直列した《視る》は、現実・図像・想像を織り交ぜて世界を見通す作家本人の肖像にも見える。
Ⅰ(大食堂)の《女心》は教会のような塔屋を持つ建物を背景に鳥の頭部を持つ女性、ピストルを持つ男性、フクロウが配される。ヒッチコックの映画を連想させる画面。

 

新館(ギャラリー1)の会場は「第2部 ソワレ」と題し、戦争などのカタストロフを描いた作品を並べる「第1幕 懺悔室の展望」、女性と男性とを描く「第2幕 翻弄するミューズたち」、女性を中心にした「第3幕 私達は自由よ」の3つのグループに分けてコラージュ作品が紹介されている。

銀座を歩けば、いろいろの高価な品がショウウィンドウに飾られていて私たちの眼をひきます。どこのどういう人が買ってゆくものか判らないけれども、女性の夢であることはたしかです。そうした華やかな夢とは別のささやかな私たちの夢をご紹介しましょう。(『流行』1953年7月号p.76)

 

赤いラシャの紙の前で最初に手にしたのは、女の澄んだ横顔でした。これは古いスタイルブックから見つけたものです。優しい多感な口許、美しい瞳の行方は、とこんな空想を走らせながら、黒い踊っている椅子、ベルトを持つ両手はそこから生まれたようにいきいきとし、私は女をリズミカルな造花にいたしました。(『流行』1953年7月号p.77) 

コラージュ――他人の作品の拝借。鋏と少しばかりの糊。
芸術……芸術と申せば何んと軽やかな、そして何んと厚かましい純粋さでしょう。
ただ私はコラージュが其の冷静な解放の影に、幾分の嘲笑をこめた歌としてではなく、この偶然の拘束のうえに、意志の象を拓くことを願うのです。(「コラージュ」1956年)

作者が、生まれた落ちた時代の制約(「偶然の拘束」)の中で表明するのは、社会の求める模範的な女性象(「そうした華やかな夢」)とは異なる理想(「ささやかな私たちの夢」)である。もっとも、その理想は現実には叶えがたい(「私は女をリズミカルな造花にいたしました」)。だとしても、現実と乖離した表現(「何んと軽やかな、そして何んと厚かましい純粋さ絵空事」や「幾分の嘲笑をこめた歌」)としてではなく、理想を貫く主体であることを真摯に訴えることに価値を見出してる(「意志の象を拓くことを願う」)。そこに、意志や主体を解体するシュールレアリスムの作品群とは異なる、岡上淑子のコラージュのメッセージないし作品の強度が存在する。そしてその問題意識が60年以上経過した今日においても(残念ながら)極めてアクチュアルでえあるがゆえに、彼女の作品が再評価されるのだ。