可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 荒木珠奈個展『うえののそこから「はじまり、はじまり」』

展覧会『荒木珠奈個展「うえののそこから『はじまり、はじまり』」』を鑑賞しての備忘録
東京都美術館〔ギャラリーA・B・C〕にて、2023年7月22日~10月9日。

荒木珠奈の個展。

舞台に降ろされたクリーム色のカーテンが開き、物語が始まることを《はじまり はじまり》[001]が告げる。銅版画《家(赤)》[003]・《家(青)》[004]・《家(ピンク)》[005]は、前半の目玉作品である《Caos postico(詩的な混沌)》[032]の前触れとなっている。《Caos postico(詩的な混沌)》は、色取り取りのセロファンを取り付けた家形のランプシェードにより様々な色の光を放つ電球が天井からぶら下がるインスタレーションである。夜、メキシコの家並が星空に見えた経験に着想されたという。前半のもう1つの目玉作品は、日本の団地のイメージに基づく《うち》[033]である。白く塗られた様々な形の箱が壁面に取り付けられている。それぞれの箱には203のような番号が割り振られ、その番号を持つ鍵によって箱の南京錠を開くと、中から温かな光が漏れるともに、人々の営みを表わしたエッチングが現われる。
家の系列の作品群と対になるのが、旅の系列の作品群である。橇を引く人々を描く《El viaje(旅)》[002]、荒野にトランクを抱えて佇む人が眺める雲に自らを見出す《浮き雲暮し》[014]。移動生活を送るサーカスのテントをモティーフとした《サーカス前夜》[044]や《El circo mas pecueño del mundo世界で一番小さいサーカス)》[041]。さらには移動自体を表わす、車輪の付いた舟《道》[022]や《Los arboles en las lanchas(舟に樹々》[007]。

ところで、エドワード・ケイシーによれば、人間の住み方(dwelling)には、ヘスティア的住み方とヘルメス的住み方との2つの様態があるという。竈の神であり、竈が家の中心にあることから家政(オイコス)の神であるヘスティアに象徴される住み方とは、同じ場所に停留することである。中心には閉鎖的な建物としての家を持たねばならない。他方、素早く走る能力を持つヘルメスは旅行者の神であり、ヘルメスに象徴される住み方とは、放浪であり、移住しながら1箇所に留まらない(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.128-131参照)。

 ヘスティアとヘルメスの2つの住み方は、2つの身体行動のあり方と対応している。ヘスティアの、不変で、長期的に続き、計算された行動は、家庭生活の核をなす習慣的行動や記憶を表現している。家庭生活の親密さと記憶しやすさは、塀によって仕切られた家の内部空間に慣れ親しむことに負っている。身体は環境に据え付けられる。文化と呼ばれるものは、ヘスティア的な場所に蓄積され、形象された集団的な記憶と慣習に他ならない。これに対して、ヘルメスの変化に富み、反復的・習慣的とはならない即興的で偶発性を含んだ行動は、開かれた公会の場所、境界の外、家々の道路を素早く移動するときに向いたものである。
 私たちは誰もが、これらの2つの行動のあり方をとるし、ヘスティアとヘルメスの2つの住み方は矛盾するのではなく、相補的である。私たちは動物である。樹木は居住しない。生えているだけである。自分で運動できる存在だけが、休息することも移動することもできる。そして、動物は学習する。学習とは、ある新しい場所に適応し、新しい主観を獲得することである。習慣は柔軟に環境に適応することであり、習慣そのもののなかに調整的な能力が前提とされている。習慣は変化への対応を含んでいる。そうでなければ、機会が示す反復と異ならなくなり、生物が学習する行動とはほど遠くなってしまう。
 しかし、もし動く者のみが居住できるのであるならば、ヘルメス的な住み方こそがヘスティア的な住み方の前提条件となっているはずである。ケイシーは、ヘルメスとヘスティアを並列的で単純に相補的に扱うが、ヘルメスこそがより基本的な住み方ではないだろうか、私たちは、休息し、炉端に安らぐ存在であったとしても、何にもまして私たちは、動物であり、動く存在である。ヘスティア的な住み方は、ヘルメス的な住み方の特殊な形態である。ちょうど、安定した土地が、海洋惑星の特殊な一面に過ぎないように。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.131-132)

ヘスティア的な住み方がヘルメス的な住み方の特殊な形態であることを思い起こさせるのが、作家の作品群と言えないだろうか。そして、その背後には、「安定した土地が、海洋惑星の特殊な一面に過ぎない」との洞察がある。それを表わすのが天井から壁伝いに禍々しい何かが雪崩落ちる《見えない》[034]である。

 自己維持するための境界は、堅牢な壁ではありえない。いかなる堅牢な壁も海洋惑星の流動に逆らうことはできず、その内側を海と空気の威力から守ることはできない。複雑で変動に満ちた海洋惑星では大地ですら浸潤を免れない。一見すると大地が固定しているように見えるのは、海や風からの浸食に動的に抵抗しているからである。砂浜は引き潮で削られていくが、それがなくならないのは、川から砂が運ばれて続けているからである。安定性は、反作用と抵抗の結果であって、単なる受容の結果ではない。自己維持は積極的・創造的にしかなしえない。大地も、海と同様に、生成し運動している。
 したがって、ウェザー・ワールドで、自己を維持するために必要なのは、壁ではなく、柔軟でダイナミックな適応力である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.202-203)

会場には蝶を模した白いテントが設置されている。その周囲では、昔噺に関するワークショップの活動が併せて紹介されている。想像力で蝶に変身し、ときに海となる大地をも越えて行けと、作家は訴えるのだ。