可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『東京エフェメラ』

展覧会『東京エフェメラ』を鑑賞しての備忘録
インターメディアテク〔GREY CUBE〕にて、2023年4月29日~9月3日。

官公庁や報道機関の出版物、企業や文化施設の広告・ポスター、アーティストの活動記録など、理想と現実を捉えた多様な「エフェメラ(一時印刷物)」を通じて、戦後東京のヴィジュアル・アイデンティティを捉える試み。「1945年の記号上のリセット」、「理想都市に向けて」、「消費の殿堂」、「東京計画1960」、「芸術家の舞台」、「街のテクスチュア」、「アンダーグラウンド(地下空間)へようこそ」、「タウン誌の記憶」、「副都心の誕生」、「若者文化の旋風」、「懐旧の時代」に分けて展示される。

「1945年の記号上のリセット」
《帝都近傍圖戦災區域表示》(1945)は都心の戦災状況を示した4万分の1の地図。東京を俯瞰し、被害を抽象化する。目の前の瓦礫は地図上の赤い区域となる。文化社発行の写真集『東京・1945年・秋』(1946)は東京を病後に擬え、未だ切開手術の後が生々しいと記した。東京が焼け爛れたのは凄惨な絨毯爆撃によるが、病んだ帝国日本を治療したのが連合国≒アメリカであるとの認識が占領軍とともに共有されていたのか、あるいは検閲を免れるための方便であったのか。いずれにせよ、《帝都近傍圖戦災區域表示》(1945)と同範囲の地図《新東京案内精圖》(1947)では、占領軍に倣って、宮城中心に四方に伸びる道路をAVENUEとしてA~Zの記号で、環状道路をSTREETとして数字で記している。それは恰もアメリカ軍による手術の縫合糸のようである。「特集:英字の大氾濫」『アサヒグラフ』44巻33号(1945)が伝える、街中に現われた多数の英語表記は、英語の仕様を控えていた戦前からすれば、敗戦を目に焼き付けるものであった。

「理想都市に向けて」
《東京娯楽案内》(1947)が観光地・名所をイラストで表現し、路線図と組み合わせて提示していたが、バス観光は観光地・名所を繋ぎ、連続したイメージを生成する。国際的な観光都市を目指すのに併せ、美化運動が推進される。例えば、『東京広報』88号(1959)は「東京の顔は汚れている―はんらんする屋外広告物―」と特集を組んでいる。メディアは面目を一新した理想的な姿を喧伝するが、それに対抗するルポルタージュもあった。朝日新聞社の『TOKYO 東京』(1961)は、住環境、教育環境、交通環境など東京に暮らす人々の身近な問題を写真で示し、風刺的なコメントを添える。

「芸術家の舞台」
1960年代、前衛芸術家たちがギャラリーや美術館を飛び出し、公共空間でハプニングとして表現を行った。高松次郎赤瀬川原平中西夏之らの活動を地図上に記した「ハイレッドセンター」(1965)は、東京の地図に主観的なマッピングを施している。この点、東京都写真美術館「風景論以後」展に展示中の今井祝雄《Walking/Abenosuji》(1976)では、作家の移動の記録を交差点の写真と道程を示した地図との組み合わせにより、「Googleストリートビュー」的イメージを表現する。芸術家たちの試みは、今日の地図≒世界の主観化の過程を示していると言えよう。

「街のテクスチュア」・「若者文化の旋風」
1960年代から1970年代にかけて『プロヴォーク』の写真家たちが大胆なフレーミング、粗い粒子、ブレ、外れたフォーカス、極端なコントラストを駆使し、被写体の物質性を強調しつつ抽象的なパターンで東京を切り取った。東京は、「出来事が起きる舞台ではなく、写真家によってひとつのテクスチュアとして捉えられる時空間となった」。北島敬三がギャラリー「キャンプ」で開いた連続展をまとめた写真集『写真特急便―東京』(1979)がその典型である。
裏返せば、都市のイメージを個人が作り変えることができるということである。
渋谷PARCOはその広告・宣伝により渋谷を作り変えた。その例が区役所通りを「渋谷公園通り」と名付けたことである。占領軍が既存の道路をAVENUEやSTREETとして記号化したように、渋谷PARCOは渋谷を占領したのである。そして、そこには新たに誕生したアートディレクターの存在が大きく関与している。
SMAP(現在、長年の性的児童虐待が報じられているジャニー喜多川命名によるアイドルグループ)が10周年を迎えた際、アートディレクターの佐藤可士和がメンバーのイメージを用いずにグループ名のロゴと青、赤、黄の3色の組み合わせだけに絞り込んでデザインし、併せて渋谷の街をジャックしたのもその延長線上にあった。PARCOにできることはジャニーズ事務所にもできるのだ。
そして、渋谷の私的占領は、宮下公園の物理的な「囲い込み」へと雪崩れ込んでいった。

「副都心の誕生」
池袋・新宿・渋谷の副都心形成は、東京市が山手線の内側に私鉄を乗り入れさせなかったことから乗換駅となったことが大きく影響している。この点ついては、旧新橋停車場鉄道歴史展示室で開催された「山手線展~やまのてせんが丸くなるまで~」(2023)が参考になる。
1969年の新宿駅西口地下広場で開催されたフォークゲリラ集会を機動隊が排除(「囲い込み」)したことによって、新宿の広場は通路になった。人の繋がりはsquareからlineへ。現在に通じるオンラインへの流れが既に出来ていた。エフェメラは文字通り儚い存在であった。印刷物はQRコードを読み取りアクセスするデータに取って代わられた。QRコードは、可愛らしい美少女、あるいは凜々しい侍たちが全て数字に過ぎないことを静かに伝える。全ては数字。資本主義のなれの果ての街。建物を覆うのは、ポスター(印刷物)ではなく、モニターである。東京自体がエフェメラとなった。