展覧会『三瓶玲奈「線を見る」』を鑑賞しての備忘録
Yutaka Kikutake Galleryにて、2021年7月30日~9月4日。
絵画「Looking at the line」シリーズ10点で構成される、三瓶玲奈の個展。
ある作品(610mm×500mm)では、画面の下端から中央やや下まで、青、濃紺が横方向に刷かれ、中央から上端に向かって白っぽい黄に淡い青が重ねられる領域が増えていく。その中間に、レモンイエロー、灰色、灰青が横方向に伸びるように置かれ、わずかに朱が覗く部分がある。秋、空が白み始めた時間帯の湖水とその上に棚引く雲を描いたようだ。
また、ある作品(320mm×415mm)では、画面の下側に白味の強い紫を横に刷いてあり、その領域の上端は赤紫を帯び、そこから白っぽい黄色が画面上端に向かって黄味を強めていく。白っぽい領域には白・黄・青の絵の具を盛るように塗り付けた部分がある。湖水の春の夕景のように見える。
出品作品中2番目に大きい作品(1300mm×975mm)では、幅広の絵筆で、下側に黒に近い濃緑を斑の無いように、上側に灰青を斑のできるのに構わず大胆に、それぞれ塗っている。その2つの領域の間には、白・灰青・緑などを太めの筆で短い線く乱雑に置いていっている。森の向こうに広がる水面と空、あるいは澱みの表面で光が乱反射するようでもある。
展示作品中最大画面の作品(1620mm×1945mm)では、画面の下側に茶、焦げ茶、ベージュなどを幅広の線で縦横に描きこみ、上部は黄みがかった白が描線が目立たないように塗り込められ、上部にわずかに水色を覗かせる。画面中央には、ベージュ、黄、白、赤、青などの細い線を横方向に重ねている部分がある。昼日中、大きな雲が湧き上がり、それが水鏡に映っているのかもしれない。
いずれの作品も、水面・大地と空との境界をモティーフとしていながら、いわゆる「水平線」の描写を避ける狙いが明白である。また、風景画と抽象画との間(あわい)に位置するような作品は、絵画内のジャンルという区切り(=線)を溶解させようとするものである。
新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中、トリアージという命の選別がくっきりとした姿を表わすようになった。格差ないし階級による社会の分断という「線」が、パンデミックによって照らし出されている。「線」の分ける機能は、社会を理解する(=分かる)ために有用であり、「自己」という領域を守るためにも必要とされている。限られた医療資源を効率的に活用するためにトリアージが引く線もまた必要である。だからと言って、古くからポリス的動物と言われてきた存在が、あらゆるものを截然と区別できると考えるのはナイーヴに過ぎるだろう。新型コロナウィルスの蔓延は、国境に壁を建設する(=線を引く)アナクロニズムを嘲笑するようではないか。そもそも地図に引かれた線(例えば国境)は現実には引かれていない。線は人々の頭の中にあるに過ぎない。
ところで、風景を描くことは、ある場所で感覚したものを視覚的な表現に落とし込むことである。レンズを介した光(photo)が描く(graphy)機械的な写真ではそもそも感覚は問題にならないが、人を介する絵画では視覚はもとより他の感覚も盛り込まれざるを得ない。風景の中に存在しないはずの「線を見る」のは、五感全てが捉えた結果を頭の中に構築する(=想像する)からだろう。作家が目指す「線」とは、理解のために世界を単純に分断してしまう線ではなく、それとは逆に、五感を介して捉えた世界を繋ぎ合わせるための線ではないか。それは、壁のような剛体ではなく、常に揺らぎ続ける流体の形をとるだろう。「水平線」ではなく、筆触の重なりによる境界領域こそ、世界を繋ぐために揺らぐ「線」である。