可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 岡田萌・岸本望二人展『余熱、皮膚と気球』

展覧会『岡田萌・岸本望「余熱、皮膚と気球」』を鑑賞しての備忘録
OGU MAGにて、2022年8月25日~9月4日。

岡田萌の立体作品8点、岸本望の絵画6点を展観。なお、《余熱のためのテキスト》を両者がそれぞれ掲出している。

岡田萌の立体作品について
《pleats》(200mm×160mm×130mm)は、7枚の短冊状の銅板を重なる部分を作って並べ、銀色のごく小さな螺旋で留めた作品。銅色の表面に金槌で叩いた細かな跡が表情を作っている。銅板を折り返して作ったつまみが、作品の左上の部分を挟む形で取り付けられている。壁に掛けられた作品は、このつまみによって手前に引っ張られたように歪み、作品の左側の一部が壁から浮いている。
壁に設置された薄いコンクリートの台座に設置されている《gap》(110mm×110mm×35mm)は、胴、脚(2枚)、耳に充てた4枚の銅板を胴の切れ込みに挿し込むことで自立させた馬の像。銅版の表面には細かな槌跡が施されている。銅版という平面が、組み合わされることで、馬の立体へと変化している。二次元から三次元へと次元が変換されている。
《hear》(190mm×270mm×120mm)は、モルタルで作られた犬の頭像。素材そのものの灰白で、原型に施されていたものか型から取りだして後に叩いたものかは判然としないが、表面には小さな槌の跡がある。やや下を向いている犬の鼻、目、耳の形は、槌跡がモルタルの表面に溶け込みながらその形を確かに伝えているように、頭像の中に潜むように収まりつつはっきりと認識できる。伏せる犬の全身像《honest》(450mm×750mm×300mm)との対比から、《hear》の犬は、会場のコンクリートの床に沈み込んでいるように見える。四肢が封じられ、目・鼻・口が下を向く中、上側に位置する耳によって聴覚を研ぎ澄ます様子が伝わってくる。
《water object》(110mm×90mm×90mm)は、口縁と首を持つ壺のような形態のモルタルの作品。表面には部分的に櫛目が施されている。「water object」と名付けられた作品が壺形をしているのは、水が湛えられている様を想像するよう促すためであろうか。並べて展示されているやはりモルタル製の作品、岡田萌《sink object》(280mm×145mm×135mm)は、鼓に近い形の幾何学的形態をとる。方向の異なる櫛目が器体の表面を埋め尽くしている。
《water object》と《sink object》とが水の下降を表現するとともに、《honest》は犬が伏せ、《hear》は犬が床に沈み込む。床に設置された作品群は、下方向の動きを表わしている。それに対し、《pleats》の銅版は浮き上がり、《gap》の馬は立ち上がる。壁面に展示された作品は上昇運動を表現している。水を用いずに水の循環を表わす、一種の枯山水インスタレーションと解することが可能である。それというのも、作家は、《余熱のためのテキスト》において、金柑のジャムを制作したエピソードを紹介し、味が染み込むためには一旦煮詰められた金柑から出た水が、冷却により戻ることが肝要であることに言及しているからである。

岸本望の絵画について
《Petrichor》(273mm×220mm)はゴツゴツとした灰色の画面に藍や青が差され、引っ掻いたような線も施されている。「ペトリコール(Petrichor)」とは、乾燥した地面に雨が降ったときに上がる香りのことで、雨の降ったアスファルトなどの路面を表わしたものであろう。画面が作る降雨のイメージは、気化を思わせるタイトルと相俟って、水の下降と上昇とが示される。岡田萌がインスタレーションとして展開していた水の循環を、岸本望は《Petrichor》という1つの画面で行っていると評することもできよう。また、日射により温められた地面(≒「皮膚」)の「余熱」が気化熱として奪われていく様を思い浮かべれば、温められた空気の上昇という形で「気球」への連想へ誘われる。展覧会タイトル「余熱、皮膚と気球」を象徴する作品とも言える。
《eschet#1》(333mm×210mm)は、木の板に赤、黒、白などで描画した上に紙を貼り付け、その上からスプレーで描き込むとともに、紙の一部を剥がすなどしている。左側に画面を切断した部分があり、それが没収などを意味するタイトル(escheat)の由来と解される。切断により、絵画は平面から支持体を含めた立体としての姿を表す。岡田萌の《gap》に通じる次元の変換が見られる。
《heat wave》(180mm×140mm)は、全体に赤い画面に緑が差され、金・銀のメタリックな光沢が目を引く。《Residue/thrum》(333mm×242mm)は、グレーの画面に紺や赤が配されて、マットな画面の中で、鉛筆で描き入れられた細やかな線の光沢に目が留まる。
《余熱のためのテキスト》において、作家は、壁を通して、どこかにいる人が触れてきて話しかけているのを感じると吐露している。岡田萌の《hear》という作品に、常に声を感知する岸本望という作家の姿が重なる。声は波であり振動である。熱もまた振動である。目に見えないものを関知している。作家にとって「余熱」とは、関知した音の残響である。作家はその構造をこそ作品に落とし込もうとしているのではないか。提示したいのは作家の描画行為(運動≒振動)そのものであり、絵画はその残余に過ぎない。眼前の夏草をきっかけに失われた存在を幻視する「夏草や兵どもが夢の跡」のように、作家の絵画は、鑑賞者の眼前にある画面から、そこに描かれていない描画行為(運動≒振動)をこそ読み取るように促すのである。