可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 笹原花音個展『RELAX FOREST』

展覧会『笹原花音「RELAX FOREST展」』を鑑賞しての備忘録
HIGURE 17-15 casにて、2023年3月17日~31日。

脚が極端に長い椅子「Super Chairs」シリーズを中心とした笹原花音の個展。

小中学校などの教室でよく見られる生徒用の机と椅子、コインランドリーなどに置かれる赤い丸い座面のスツール、駅のホームなどに固定されたシェルチェアなど、目にしたり坐ったことのあるタイプの椅子が並ぶが、いずれも座面が人の頭かそれ以上に高い位置に来るよう、極端に脚が長い。椅子は林立する高層ビルやタワーマンションのようにも見える。岡本太郎の《坐ることを拒否する椅子》は盛り上がる座面に顔があるものの題名とは裏腹に(?)腰掛けることが可能だが、「Super Chairs」は脚榻にでも登らない限り坐ることは難しいだろう。

 カネッティは『群衆と暴力』のなかで、立っていること、座っていること、横たわっていること、うずくまること、跪くことに分けて、姿勢の意味するものに鋭い洞察を加えているが、跪くことを「慈悲の嘆願の身ぶり」だといい、また従者が立っていることと貴人が座ることを対比して次のようにのべている。
「椅子に坐ることは、もともと栄誉のしるしであった。椅子に座った者は、自分の臣下あるいは奴隷たる他の人びとの上に座ったのと同然であった。かれが座っているあいだは、かれらは立っていなければならなかった。かれがいい気持ちでいる限りは、かれらの疲労などは歯牙にもかけられなかった。もっとも大事なのはかれであり、守らなければならないのはかれの神聖な力であった。」
 休息の技法であるはずの椅子への着席は、休息をこえて儀礼的な意味に彩られることになった。座ること即ち休息という直接的な意味が見えなくなり、二次的に派生した儀礼的な意味が姿勢を構成する要因であるように見えはじめる。だがカネッティはある「姿勢」に固有の意味が附着していることを問題にしているのではない。権力(ここでは宮廷)という意味の場にある限り、「姿勢」が他の姿勢との関係によって右のような意味作用をもつことを示したのである。(多木浩二『目の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008/p.302-303)

「Super Chairs」は住まいなどの私的な空間ではなく駅や公園、学校など公共的な場に置かれる椅子がモティーフとなっている。その椅子が坐れないものとして呈示されている。誰でもが利用可能なものが誰でもが利用できなくなっている。それは、例えば都心部の公園が壁で囲い込まれ、門限が設けられるなど閉鎖的な性格を強めている動向――とりわけ商業施設の屋上という高い位置に移転された「渋谷区立宮下公園」――を揶揄するようである。
河川敷の橋(支承)の裏に逆様に設置されたオレンジ色の座面のシェルチェアを撮影した写真は《untitled》と題されている。それは題名(title)が無い(un=not)のではなく、坐る権利(title)が無い(un=not)ことを表わしている。