可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小林椋個展『亀はニェフスのイゥユのように前足を石にのばすと』

展覧会『小林椋「亀はニェフスのイゥユのように前足を石にのばすと」』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2022年12月10日~2023年1月22日。

小林椋の個展。文学作品の描写において動作を表現するために擬えられたものを実際に観察し、単なる動作を抽出・提示する試み。

展示室の床は黄色のシートが敷かれて明るい。その中に4点のキネティック・アートが点在する。《巻き戻りスー棒》、《クススして、もう見えない》、《土状のついたて、ユィエはわかった》、《定点か下降こう粉》は、オレンジ、青、緑、灰色など単色に塗られた不定形のオブジェがモーターによる回転運動を利用して一定の動作を繰り返す、スタイリッシュなデザインの玩具のような作品。前後に動き、緩やかに回転し、あるいはある動作をきっかけにのたうち、あるいはぎこちなく揺れる。それらはイマヌエル・カント(Immanuel Kant)よろしく、何らかの目的に資する手段として存在するのではなく、目的それ自体として現存するようだ。

「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ」(定言命法の第二方式)。
これは「目的の方式」とも呼ばれている。自然法則の対象は自然であり、単なる物件(物)であるのに対して、道徳法則固有の対象は人格であり、人間性にほかならない。この人格は自分自身と他者の両方に同等に認められるものである(〔括弧内省略〕)。重要なのは、人格の人格たるゆえん、それが物件と本質的に異なるゆえん、それは人格が単に手段としてではなく、つねに同時に目的として見なされるということである。(石川文康『カント入門』筑摩書房ちくま新書〕/1995年/p.165)

何らかの対象の模倣ではなく、自律した存在としての作品への希求が、解釈を逃れようと藻搔くようなタイトルからも窺える。

本展のもう1つの柱は映像作品である。書見台の上に開かれて固定されたSF小説の文庫本とスマートフォン、その上方に物語に登場する表現に相当するイメージを撮影した動画を表示するモニターが設置され、書見台の下部にはスピーカーが収納されている。このような装置が4台ある。
例えば、《おちつきなくつきをちくちく》は、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』の「カメラは餌物を追う鳥のようにこの影めざして舞い降りた」という表現に着目し、実写と線画によるアニメーションとの組み合わせで鳶(?)の姿を追った映像が流されている。文庫本の脇のスマートフォンには、作家の制作記録やコメントが表示される。鳶をカメラで狙うハンターであった作家は、パンを手にすることでハンターである鳶に狙われる獲物へと反転する感覚を味わったという。

 猟の本質とは、人間と獲物のあいだの関係性にある。猟が示しているのは、大集団をなした人間社会の生活から離れ、ひとりで、あるいはごく少人数で動物と対峙することである。オルテガ・イ・ガセーに言わせれば、「狩猟は動物の模倣である」。さらに、彼は、「獲物との神秘的なそうした合一の中にすぐさま生じてくるのは、1つの感染であって、狩猟者は獲物と同じように振る舞いはじめる」という。この哲学者の言葉は狩猟者の証言と一致する。
 狩猟者が獲物と近いのは二重の意味においてである。ひとつは獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならないからである。猟とは、いかに獲物に近づくかにかかっている。日本で唯一残った偉大な熊撃ちとして知られる久保俊治はこう語る。「付近一帯のシカの動きを知るには、自分がシカになったつもりで何日か徹底的に歩いてみるのが一番だ」。狩猟とは、獲物へと変身することである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.87)

《壁のなかに線をこねる》では、ニール・スティーヴンスンの『ダイヤモンド・エイジ』における「まるで黒いクモの巣の真ん中に張りつけたアブのような動きだ」という件から、小茂田青樹の《虫魚画巻》を想起させるようなクモの巣などがモニターに映し出されている。スマートフォンのコメントによれば、作家は、風に舞うクモの巣を見て、クモはその足場であるクモの巣が動いていると認識していないのではないかと思い至ったという。人間が暮らす大地もまた巨視的観点に立てば、常に振動あるいは流動しているのである。

 長期的に見るならば、地殻は変動してやまず、海と陸はその位置を交代してしまう。地球の外皮を覆っている大地は、ゆっくりしていても流体にほかならない。(略)地球は水と空気でできており、大地とは緩慢に動く水の混じった泥である。剛体は動きの遅い流体である。私たちが住んでいるのは、海洋惑星である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.114)

作家の眼差しは巨視的であり、また、対象と自らとの関係を反転させることでその境界をなし崩しにする。

 こう解釈できるのではあるまいか。〔引用者補記:現象学者のモーリス・メルロ=ポンティが『眼と精神』でその発言を紹介している、画家アンドレ・マルシャンが〕私が樹木から見られるということは、他者の顔に共感して自分を見る眼とその視線を理解したように、私は樹木たちに共感し、その樹木たちの視点から自分を捉えたのだ、と。しかし樹木に共感するとは、どういうことか。それは、私が他者の身体と自分の身体を重ね合わせたように、樹木と自己の身体を重ね合わせることである。
 森が見るとか、樹木が見るとか、樹木と身体を重ね合わせるといったここでの表現は、アニミスティックで神秘主義的に思われるかもしれない。人間である私は、動物差でさえない植物と、どのように身体を重ね合わせるというのか。樹木は見ることはない。そもそも眼がないのだから。こう私たちは考える。しかし、どうして私たちは眼があれば他者が見ている思うのだろうか。他者の視線とは何であろうか。他者の眼、丸く白い球体の真ん中に色の濃い小さな皿のようなものが存在して、左右上下に動いているというだけで、なぜ私は見られることを理解できるのであろうか。他者が視覚をもつことを私たちが認めるのは、彼らに眼があるからだけではない。他者の視線を理解するとは、見ている他者の身体に共感し、その見るという行為、そのひとが首を向け、眼を向けて、目を凝らし、焦点を合わせている様子と見えている光景の関係性を理解することである。他者の身体の運動や表情を、自分の内的な運動感覚によって理解することが他者理解である。
 見ることは動きなのだ。見ることも行為であり動作なのだ。とするならば、樹木が見ていると感じるのは、こういうときなのだと考えられないだろうか。それは、樹木が下から上にのびている成長と、風がその成長に加える圧力が枝と幹の形に痕跡を残し、今したがわずかに枝が蠢き、幹に何かが流れる音がかすかに聞こえ、枝が風になびき,葉が舞い落ちる様を、私たちが自分の運動感覚によって捉えたときなのである。樹木をひとつの運動体として捉えたときに、私たちは樹木の知覚を知る。そして、樹木が見ている経験とは、そうした運動体が私に関心を持ち、私に向けてさまざまな見る仕草を向けているかのように感じるということである。樹木が私の存在に関心を持つと感じるとは、私が樹木に与える影響を知っているということである。それは、樹木にとっての私の持っているアフォーダンスを知ることである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.54-55)

作家は道徳法則の対象を拡張しようとしている。