展覧会『藤森詔子「生きていることをあたりまえと思うな!」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Ryogokuにて、2022年11月26日~12月24日。
11点の絵画で構成される、藤森詔子の個展。
表題作《生きていることをあたりまえと思うな!》(2273mm×4546mm)は、突然の襲撃を受け、一人の女性が攫われ、それを阻止し、あるいは嘆き悲しむ人々を描いた作品。駐車場か広い道路のような開けた場所が舞台。後方には激しく炎を上げ黒い煙が立つ車列が見える。右側の爆破された瓦礫の中には、アスファルトの下の土が覗き、激しい雨が既に水溜まりを作っている。その手前には襲撃に斃れた人物と、彼に手を触れる動顚した女性の姿がある。瓦礫の上には、黒い衣服の男性が宙に浮かび(男性が伸ばす右腕の先にはヘリコプターから降ろされた梯子でもあるのだろう)、1人の女性を抱き抱えて連れ去ろうとしている。画面左側には彼女に向かって腕を伸ばす白い衣装の女性たち、連れ去る男に向け矢を放とうとするケンタウロス、乳飲み子を抱えて座り込む母親、不安げに見上げる父と子供たち、逃げようとする女性、頭を抱える男性などが配される。建設現場の仮囲い、部分的な石垣とアーチ状の天井などが舞台装置のような観を呈するとともに、とりわけ攫われる女性と、彼女に向かって手を伸ばす女性のポーズによって、演劇的性格が強められている。仮囲いの向こうに聳えるクレーンや、その後方に覗く緑や高層ビル群は、惨劇がフェンスの外側の舞台で上演される演劇であるかのように、明るい空の下、断絶した世界に存在する。そして、同じく隔絶した世界にいるのは作品の鑑賞者である。どんな惨劇も画面の向こう側にしか見ていない。それは、日々液晶画面でニュースを知る私たち自身でもある。なおかつ、タワークレーンの聳える建設現場を介在させたのは、日々接する情報が加工されていることのメタファーであろう。だが暗雲はフェンスの手前で止まることなく越えていく。それが、絵画でも、芝居でもなく、現実の世界である。題名が示す通り、メメント・モリ(memento mori)の作品である。なお、《出産しなかった女、旅立ちは母と祖母と共に》(803mm×652mm)は、宙空に浮かび眠る(死ぬ)老女を見下ろす女性の表現に明らかにサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)の影響が見られる。《生きていることをあたりまえと思うな!》の構図もニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)の《サビニの女たちの掠奪(L'Enlèvement des Sabines)》などを参照しているかもしれないが、分明で無い。
《My Skin Color is...》(257mm×182mm)は、親指・人差指・中指を伸ばして銃の形にした左手をこめかみに向ける女性が、右手で「拳銃」の左手を押しのけようとする姿を描いている。女性の顔の左半分が画面の左下に配され、左手が画面右上に置かれて、なおかつ右手で支えるように描かれることで、「拳銃」のずっしりとした重さが表現され、目を固く閉じる女性の沈痛さが強調される。題名からは、肌の色に対するネガティヴな自己評価がテーマと分かる。作家の描く肌には、血管が浮き出し、その熱さや冷たさのようなものが誇張されている。肌の向こうにある得体の知れない何かを描き出すような、ある種の透明感を有する独特の肌が作家の持ち味の1つだ。街角に立つ女性の姿を絞りを開放して撮影したような肖像画《Honest Eyes #2》は、彼女の上を向く眼――筒井康隆『モナドの領域』の登場人物の、宙空を見上げ黒目が泳ぐという描写を想起させる――によって、作家の描く肌の持つ得体の知れない何かが効果を上げ、鑑賞者の眼に煮え付く印象を与える。
《コーヒーの湯気は、火災の煙と同じ方向へたなびく》(100mm×100mm)には、水辺の大きな木の陰で寛ぐ親子が描れている。父親は傍らに本を積み上げ、その上に熱い珈琲の入ったマグカップを置き、読書に没頭している。隣に坐る妻は赤子を抱えながら、遠く離れた対岸の街で起こる大規模な火災に目を見張っている。だがあくまでも対岸の火事である。警鐘代わりの「コーヒーの湯気は、火災の煙と同じ方向へたなび」いているが、本を読み耽る男が目を上げ、現実に眼を向けることはない。それは男は理論だけに囚われ、現実に目を遣ることのできないことを示唆する。木の枝から吊り下げられたカンテラは、彼らに対する「昼行灯」との評価である。作家のシニカルな眼差しは、プロテインを摂りながらジムで必死にバイクを漕ぐ女性の上に豊かな身体の天使がキャラメルマキアートを持って軽やかに舞う《拒食女、ヴィーナスの体型に気付く》(803mm×652mm)にも窺える。
《新しく組まれたパズル》(910mm×1167mm)は、テーブルの上のジグソーパズルに取り組む男女を描く作品。ジグソーパズルは木目のような地味なパターンで高難度のもののようだ。左側のストリートブランドのTシャツの女性は、それを並べるのではなくステゴサウルスのような恐竜の立体に組んでいる。右側の白いTシャツの上にデニムのジャケットを羽織る男性が思案顔で彼女が組む恐竜を見詰めている。彼は左手に黄色いニッパーは、画面手前に張られていた鉄条網を破壊したらしく、画面の左右に有刺鉄線が垂れている。ところで、ジグソーパズルの柄は土のメタファーであり、それを用いて恐竜を組み立てることは、土塊に生命を付与するゴーレムのイメージとも相俟って、発掘した恐竜の再生を暗示していよう。恐竜などの再生を描きつつ、倫理的な問題に先行する科学の発達に警鐘を鳴らす映画「ジュラシック・パーク(ワールド)」シリーズと同じテーマを扱っている。有刺鉄線(鉄条網)が表象するのは、倫理的羈束である。それは鬱陶しいものとしてカジュアルに乗り越えられていこう。
《永遠のランチパーティー》(910mm×1167mm)は、2人の女性がハンバーガーやピザを食べる姿を描いた作品。左側の口を開けて笑う女性は右手に持ったピザに、左手でケチャップを垂らしている。ケチャップは口の周りや白いTシャツの胸元にも付着している。テーブルの上で倒れたボトルから溢れたマスタード、ピザのチーズ、ハンバーガーのソースなど、滴りや溶け出るイメージが繰り返し現れる。右側の歯を見せて微笑む女性は右手にハンバーガー、左手に箸でフライドポテトをつまんでいる。左側の女性の背後の壁には世界地図が貼られている。右端が日付変更線あたりで切れているため、本初子午線(イギリス)を中心とした世界地図であろう。北緯30度付近で上端が見えなくなっているために、オーストラリアやインドネシアの上方に位置する日本列島の姿はない。右側の女性の背後には額装された(おそらくは北極海の)海氷の写真が貼られている。世界中にチェーン展開するハンバーガーやピザといったファストフードが目の前に溢れるほど沢山ある。食い散らかす女性たちは、ファストファッションの典型とも言える白いTシャツを身に付けている。その食料や衣料がどこから来ているのか、あるいは、飽食(浪費)の背後にどんな問題――溶け出すチーズなどは海氷の融解のメタファー――があるのか、省みられることはない。画題に掲げられた「永遠の」という言葉は皮肉である。
《ヴィジョンのためのチョイス》(364mm×515mm)は、上がり框でローファー、スニーカー、サンダルを前にした人物の足先を描いた作品。コンクリートのパネルは宇宙的な広がりを感じさせ、どの靴を履くかによって訪れる異なる未来が暗示される。