展覧会『MIOKO「大きくなったり小さくなったり」』を鑑賞しての備忘録
THE SECRET MUSEUMにて、2021年6月26日~7月25日。
身体をモティーフとする絵画7点で構成される、MIOKOの個展。
見ることは、一見すると能動的な行為に思われる。しかし、見る対象に視線を合わせ、対象を目で追い、目をこらして調整しなければならない点で、対象のあり方を受容しなければならない。この意味で、見ることは受動的である。他方、見られることは、一見すると受け身なことに思われる。しかし、知覚する者の視線を自分に集めさせ、注目を引きつけて続けて、自分のあり方に知覚者を服従させる点において能動的である。見られるという受動性は、自分の発する可視性の中に相手を捉え、可視性を放射することによって、周囲の他者たちの態度を変容させる。見られることは、見る者を誘惑することである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.40)
縦長の画面の《星の形》には、背筋を真っ直ぐにして腰掛ける人物が、青を中心とした絵具で表されている。首は長く伸ばされやや前掲し、先にある頭部は画面の上端で切れている。肩から降ろされた腕もまた長く、手は椅子(?)の座面を掴まえている。腹部は志望でやや膨らみ、臍が上を向く。胸の辺りから赤みを帯びたオレンジの光が上方や左右に向けて放たれている(《胸をたくさんひっかいた》という作品にも胸にクロスフィルターで撮影された光のような形が描かれており、「星の形」とはあるいは「傷」なのかもしれれない)。いずれも淡いオレンジや黄、あるいはピンクなどが「身体」の周囲を包んでいる。
横長の画面の《眠る山脈》には、手前に背を向けて眠る人物(?)の姿が画面の下段に緑色で表されている。緑の「身体」の背は長く、それに対して短めの脚は脹ら脛の辺りから画面右端で切れている。緑の身体の上側を沿うような紫色の波線は峰々だろうか。「連峰」の上部はクリーム色で塗り込められ、ベージュの緩やかな曲線が幾筋か入れられることで、帳が風を孕んで皺を作るようである。画面の左端、「身体」の肩から先の部分には、針葉樹の森らしきものが濃い緑で描かれている。
縦長の画面の《林の中を駆けていく》には、下生えを挟みつつ密集した6人の女性のヌードが並ぶ。長い首の先は、樹冠であろうか、濃淡の黄の波の層で覆われて、その頭部を目にすることはできない。
これらの作品に共通するのは、身体をモティーフとしながら、頭部、とりわけ眼が描かれていない点である。
描こうとする対象に見られなければ、画家はその対象が息づいている世界に入れない。よって、私が見られるためには、私は精神ではなく、身体でなければならない。私が見られるということは、私が可視的であることである。私たちは対象から反射してきた光を浴びることで見る。逆に、他者の眼は、私から反射する光線を使って見る。他者が私を見るとは、他者が私の身体から反射した光を浴びることである。他者はさまざまな場所から自分のところに集まってくる光、すなわち、包囲光を浴びている。私が周囲のどの場所も見ることができるということは、それらすべての場所から光を浴びているということである。その可能な視線だる包囲光の一部に眼を向けて、選択的にその光を眼に受ける。他者は私からやってきた光線に眼を向けることによって私を見る。「樹木が自分を見ている、私は樹木から見られている」と感じることとは、樹木が私の身体から反射した光を浴びていることを知覚することである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.56)
「描こうとする対象に見られ」、画家が「その対象が息づいている世界に入」るためには、「描こうとする対象」が画家の「身体から反射した光を浴びている」必要がある。作家が画面に表す身体は、頭部(≒眼)が消去されることで、星や山や林が発した光を受けた作家の身体であることが強調されている。
(略)自然の美的な体験とは、自分を自然の一部として感じること、そなわち、自然を礼賛する作家たちがいう「交感(あるいは、万物照応、correspondences)」の経験である。だが、それは自然から自分が見られることによってしか成り立たない。すなわち、自然を身体で経験するだけではなく、自分が、自然の側からの、樹木の側からの、野生動物たちの関心の対象となり、それらから見つめられなければならない。そうでない限り、自然のなかに入ることはできず、自然との一体感は得られない。「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」というのは、私の身体が描こうとする対象から取り憑かれるからである。対象から取り憑かれるということは、私が対象に共振し共鳴していることを裏側から述べている。そうした共鳴が可能になるには、私は対象を運動体として捉えていなければならない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.58-59)