可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『21st DOMANI・明日展』

展覧会『未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館(企画展示室2E)にて、2019年1月23日~3月3日。

文化庁による若手芸術家の海外研修支援制度「新進芸術家海外研修制度」に参加した昭和50年代生まれの美術家9人を紹介する企画。これに加え、文化庁所蔵の三瀬夏之介の作品(数多く描いた富士が津波のようにも見える《日本の絵》など)も展示されている。 

最初は、和田的。白磁を中心とした磁器34点がそれぞれ独立した展示ゲースに並べられている(一部複数作品を併置)。つややかな白い器が整然と並ぶ上、《流氷》や《茶盌|御神渡り》などの存在もあってか、厳冬の朝を感じさせる空間である。かすかに彫りが入れられた白磁の球体《スーパームーン》のぼってりとした器体や、とぼけた表情を持つ《白器大き香炉|ようこそ!》の柔らかさな印象が、アクセントになっている。

2つ目は、蓮沼昌宏の絵画と原始的アニメーション作品(パラパラ漫画を見せる手回しの道具「キノーラ(Kinora)」)。「物語る」を意味するドイツ語"erzählen"はzählen(数える)とer(獲得する)が組み合わさってできているという。この語に因んだ《数えることで獲得する》と題された、数多くの鳩を描いた絵画も展示されている。数えるとは、認識することでもあり、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のような原始の「描く」にも通じるだろう。また、絵画《歩く 歩く 歩く 転ぶ 歩く》のように、動作を挙げていくことは、動作を数えることでもある。数は時間であり、時間は歴史(geschite)であるから、物語(geschite)となる。パラパラ漫画のように、コマを数えることなく、数に思いが及ばなくなるとき、物語は自ら動き始めるのだろう。

3番目の展示室は、村山悟郎の作品8点。《自己組織化する絵画〈樹状多層構造〉》は、麻紐を織り込んだものに下地を施し、その上から絵を描き込んでいる。壁に貼り付けられたそれは、アンデスかどこかの伝統工芸品や、なまはげのような妖怪のつくりものを思わせる。撚ったり織ったりという作業の積み重ねが、精神や生命を呼び起こす感覚を味わう。《同期/非同期時間のセルオートマトン[手書き]》も同じ形を繰り返し描き込むという点では共通する。

続いて、松原慈のインスタレーション。床に、ひなげしの花の写真が複数置かれている(《Un coquelicot》)。真上からとらえた姿には、ひなげしのイメージを裏切るものもある。壁面には、ひなげしの写真と似た形状の焼きものか何かの写真とを並列した《Composition(Fodere #133. Un coquelicot #164)》、額装した英語詩《Undress》も展示されている。

カーテンに仕切られた先には、木村悟之の映像作品2点の上映。《ウンザー・ハウス・フォー・ザ・ニュー・エラ》と《ポリンキー》。

休憩コーナーを挟んで、志村信裕の映像作品《Nostalgia, Amnesia》。作者記すところの「羊をめぐる冒険」。バスク地方の山の羊飼い、フランス南部の毛糸職人、日本初の牧羊場が開設された三里塚の農家を、羊が取り持つ。3つの場所を別々に順に取り上げるのではなく、撚り合わせるかのように見せていく、その手法がとにかく洗練されていて見事。羊の毛刈とキャベツの収穫を並べてみせたりする茶目っ気も。

7つ目は白木麻子のインスタレーション。《Liquid path―Buoyancy and dynamic》、《Your window is my mirror》、《Anything lighter than water》、《On the frame, In the frame》、《A cabinet unbable to hold any secrets》の5点。椅子や壺、布や鏡などが、一見その機能を果たしているように見せながら、ただそう見せかけているだけで、その機能を果たすことを拒んでいるかのように並べられる。物には、本来的とされている機能がある。その機能を果たさないときにこそ、その物の姿が目に入り、その物の可能性が立ち現れる。個々の物の配置が持つ関係性・意味を読み解きたくなる意欲を駆り立てられる。

続いて、川久保ジョイの映像作品《永遠の六日後に(第一部)》。生命という記憶装置をテーマにした作品。壮大な作品の序章。日英2ヶ国語のナレーションが同時に流される。放射線の影響を用いた写真作品も。

最後は、加藤翼の映像作品5点と写真作品1点。映像作品《Pass Between Magnetic Tea Party》では、自動車の通る通りにテーブルを並べて会食し、車が通る度に皆でテーブルをどかし、車が通り抜けたら、また通りにテーブルを戻すというパフォーマンスを撮影したもの。「パブリックとプライベートの関係を可視化」することが狙いだという。道路を人(歩行者)に取り戻すために未明に道路を歩く関西のアーティストがいたことを思い出す。なお、この作品の最後に、テーブルの上に車を走らせてしまうのだが、会場にはそのテーブルを滑り台のように設置している。