可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 金丸知樹個展『地図がなくても行けるところ』

展覧会『金丸知樹「地図がなくても行けるところ」』を鑑賞しての備忘録
Alt_Mediumにて、2022年6月10日~15日。

絵画11点で構成される、金丸知樹の個展。

本展のメイン・ヴィジュアルに採用されている《池と木》(530mm×652mm)の画面上半分には、曇り空を背景に葉を落とした木々が紙垂のようなジグザグとした線で表わされ、画面下半分は暗緑色の池に樹木の姿が映り込んでいる様子が描かれる。それは、ちょうど地図では指示のない限り上が北を指すように、画面の上下とモティーフの天地とが一致するとの慣行に則った場合の解釈である。水面の樹影の黒い影が葉を茂らせているように見えることに着目すると、天地は逆であって、池畔の鬱蒼とした森の水辺に近い位置に立つ何本かの樹木が漣の立つ水面に映っているために、樹が歪んで見える様子とも解釈することもできる。

《地図、M君の家まで》(333mm×242mm)は、山か丘か緑地が右上と中央に位置し、その間を抜けて、左上の赤い点から右下の赤い点に向かって赤い線が結ばれている、地図と2点間の経路とを描き込んだ作品である。これと似た作品の《地図、Kの家まで》(333mm×242mm)では、直線的な線で構成される黒い形で挟まれた間を、左下と右上にある赤い点とが赤い線が結んでいるが、行程のジグザグやループが何に由来するかは判然としない。"K"という名前は、フランツ・カフカ(Franz Kafka)の『城(Das Schloss)』の主人公と同じである。城からはKの家に辿り着くことはできるが、Kの家から城へは決して辿り着けない、その不条理が複雑な迂路によって示されているようだ。
《地図、つながり》(530mm×652mm)では、上に直線的に走る運河らしき水色の線の他は、緑色の画面が広がり、幾何学的な形がいくつか配される中、いくつかの赤い点と黄色い点とが線で結ばれている。本来は全く関係のない星々の関係を、天球というフィクションで結び付ける星図のように、地図とは多分に物語の要素を含んでいる。オンラインの地図はルート検索のサーヴィスによって、地図は必要に応じてカスタマイズされ、個人の物語が付与される。絵画もまた、世界に対する作家の語りであり、地図と絵画の相同性を改めて感じずにはいられない。ところで、地図とは権力そのものでもある。徳川将軍が諸大名に提出させた国絵図や、シーボルトが地図を持ち出したことで関係者が処断された歴史を引き合いに出すまでもなく、現代においてもグーグル・マップを提供する企業が世界を動かしている。自ら地図を描くことは、巨大な権力に絡め取られないで生きることでもあろう。「地図がなくても行けるところ」とは、プラットフォーマーの力に抗して生きてく宣言とも読める。

《コーヒーを飲む2人》(530mm×652mm)には、木製のテーブルの上に置かれた、いずれもコーヒーが並々と注がれた花柄の白いマグカップと染付のような湯飲み(把手が裏側の見えない位置にあるマグカップかもしれない)が描かれている。テーブル越しの、クリーム色のカーテンが右に寄せられた窓の外には、曇り空を背にした連峰が姿を覗かせている。高原にあるリゾート・ホテルの1室で、画面(画中のテーブル)の手前に座っているために姿の見えない2人が、窓外の絶景を楽しみながらコーヒーを味わう場面を描いた作品であろうか。気になるのは、カップの作る影である。カーテンが窓の右側に寄せられているためにカップの右方向から外光が差すことはない。すなわち天井の照明が当たっているのでもない限り、カップの手前左側に影ができることはないはずだ。2人は本当に眺めの良い部屋にいるのだろうか。「地図がなくても行けるところ」という展覧会のタイトルと相俟って、作品が謎めいて見えてくる。

《すごい遠いらしい》(652mm×530mm)は、室内の壁を表わすと思しきクリーム色の画面に、カレンダーを描いた作品。上半分には、湿原であろうか、夕焼け空を映して原野を蛇行する河川が、下半分には左上に数字の入れられた桝目が並ぶ(おそらくは2022年の)3月の暦が描かれている。「すごい遠いらしい」風景が、私的な予定を書き込めるカレンダーと組み合わされている。Web会議サービスが普及し、カレンダーが象徴する家庭に、風景=外の世界が入り込んできた状況のアナロジーである。また、カレンダーの「3月」の文字には英語"March"が併記されている。Marchは軍神マールス(Mārs)に由来し、軍事情報である地図を連想させなくもない。同音異義のmarchには「行進する」という軍事関連の言葉である。フランス語の"marcher"と絡めて、広く「歩く」ことと捉えることも可能だろう。カレンダーを描いた本作は、見ることと歩くこと、やはり遠隔地(≒風景)と現在地(≒室内)との短絡を表わすものであったのだ。