展覧会『興梠優護・坪山小百合』を鑑賞しての備忘録
ナイトアウトギャラリーにて、2023年6月24日~7月9日。
興梠優護6点、坪山小百合6点、共作2点の14点の絵画で構成される、興梠優護と坪山小百合との二人展。ギャラリーの窓(奥)に向かって、右に興梠作品、左に坪山作品が、同じサイズの画面が向かい合うように展示される。興梠作品の赤系でまとめられた画面と、坪山作品の緑味を帯びた画面とが対照をなす。
興梠優護《| 118》(652mm×455mm)は、俯く女性の上半身を右側から捉えた作品。灰色を背景に、水色の薄い布を被ったように、女性の姿は曖昧に表わされ、髪や胸の高さの辺りには布を表現すると思しき水色の縦の線が入れられている。
興梠優護《| 127》(410mm×317mm)は、赤味を帯びた灰色の背景に、額の辺りで留められた黄色い布で顔を覆った女性の肖像を左側から描いた作品。布は胸の辺りまで垂れて髪の毛と区別が付かなくなる。肩や背中などに見られる花らしきモティーフは、衣装にも見えるが、判然としない。
興梠優護《| 126》(652mm×500mm)は、正面に向かって顔を向ける女性の左肩越しの胸像。映写機で投影したように枝や葉など樹木のイメージが女性を覆う中、右目や綻んだ赤い唇が鑑賞者の目を奪う。
興梠優護《≡ 05》(727mm×530mm)は、女性の胸像のモンタージュ。最上部に女性の胸の辺りが描かれ、左上から右下にかけて女性の顔の部分――頭頂部、額、片目、鼻、口など――がずらされながら組み合わされている。とりわけ、中央上部と右下に位置する眼が眼を引く。流れる髪は、女性の顔が崩れ去る運気を生み出しつつ、女性の顔のイメージを保つ枠としても機能している。
興梠優護《/ 102》(910mm×727mm)は、膝を抱えて座る女性の肖像画。右奥の朱に近いオレンジ色のカーテンが激しく波打たせる風が、針葉樹の葉か羊歯らしき植物の断片を女性に吹き当てる。女性の顔の左側や眼は隠されてしまっている。
興梠優護《| 118》(652mm×455mm)は、蛍光色に近いピンクのヴェール(あるいは白いヴェールにピンクの光が当たっているのかもしれない)を被った女性の肖像。ヴェールに覆われたか、ヴェールの色が映ったかした顔は、ピンクを呈し、右手前に一部のぞいている人物のオレンジや緑の衣装と相俟って、サーモグラフィーのような印象を生んでいる。
パンデミックのためにマスクを着けた人々の姿は、加工を施した映像が肖像として流通するのが常態となった社会のアナロジーであった、マスクや画像修正に留まらず、例えば化粧のように、人のイメージの改変は過去から常に行われてきた。その流れが激しくなるのは、流動化する社会において個人が自らのアイデンティティーを形成する責任を負わされる以上、必然であった。サステナブルな自己形成を目指すなら、変わらないことではなく、テクノロジーの変化に伴う変容に柔軟に対処するべきだろうか。
興梠優護の描く肖像画には、ポスト・トゥルース(デジタル技術)、パンデミック(防疫)、SDGs(環境問題)が鏡のように映し出されている。だが、その多様な表面によって却って浮かび上がるのは、女性像を介して追求される「美しさ」である。
坪山小百合《ef #7》(333mm×242mm×65mm)は、濃紺を背景に俯く女性の顔を白色系でまとめたシルエットで表わした作品。髪の部分にはいくつもの花が描かれている。光琳菊のように単純化された花、あるいは培地の細菌のような広がりを見せる形の花。とりわけ本作品は、厚みがあり、そこにも花が描かれているため、髪の表面に添えられた花というより、頭の中に咲いている花のように見える。坪山小百合《Between You and Me #23》(1000mm×652mm)や坪山小百合《Between You and Me #22》(910mm×727mm)や坪山小百合《Between You and Me #24》(652mm×455mm)においても、女性の頭部に培地の細菌のようなイメージが描かれている。本展には出展されていないが、作家には、"Lung"や"Breathing outline"といったシリーズを描いていることもあり、頭(≒身体)の中の花には、ボリス・ヴィアン(Boris Vian)が『うたかたの日々(L'Écume des jours)』で描いたような病気――肺に睡蓮の蕾ができる――のイメージを引き寄せる。仮に作家の花が脳に巣くう病気の表象であるとして、作家は病気を健康と対立するネガティヴなものと断じていないのではなかろうか。物事にはおよそ長短どちらの性質もあり、病を抱えることが、病を得ていないときには考えられなかった可能性を引き出す、そのようなポジティヴな表象として花=病を描いているように思われるのである。