可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『人物と静物』

展覧会『人物と静物』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2024年2月3日~3月30日。

いくつかのコルクを描いた静物画《Commutation》をポートレートと捉えるミヒャエル・ボレマンス(Michaël Borremans)に倣い肖像画静物画の関係を考察する企画、ボレマンスに加え、五十嵐大地、熊倉涼子、清水浩三、松浦美桜香の作品を展観。

ミヒャエル・ボレマンスの《Commutation》(400mm×600mm)は、平らなテーブルの上に置かれたワインのコルク栓が奥から手前に向かって4つ、4つ、3つの計11個が置かれた様を表わした作品。形こそ変わらないが、サイズや罅割れなどで1つ1つ個性が異なるコルク栓は、縦方向に傾いて置かれていて、1本は横を向いている。左から夕陽が射し込むのか、画面の中央やや下部辺りにややオレンジを帯びた光が辺り、白灰色の台のコルクの右側に影が伸びる。その影の形から皺の寄ったテーブルクロスがかかっているのが分かる。転がるコルク栓(cork)はワインを飲み終えたことを示し、死体(corpse)への連想も可能であり、一種のヴァニタス(vanitas)と解される。
同じくミヒャエル・ボレマンスの《Girl with Hands 5》(400mm×600mm)は、灰緑を背景に、テーブルに向かって腰掛け、陶土を手にしているのか、何かを熱心に見ている女性を描いた作品。俯きいた顔の眉・目の並び、やや右が下がった肩、物を持つ手の作るラインが右上がりの線を作り、その線と(恐らく後ろに髪をまとめた)頭頂部から鼻筋、手にした物が作る線が垂直に交差する。その十字は、女性の手にする物に対する効果線のように働くとともに、画面に動きをもたらす。
静物画《Commutation》を肖像画《Girl with Hands 5》と等しく捉えるなら、静止状態の中に動きを、すなわち生命を表現しようという意図を酌むべきだろう。

五十嵐大地は《Peach and Peach Seed #1》(530mm×652mm)においてテーブルの上に置いた皿の「桃」を描いている。テーブルクロス、シール、皿の白い世界に佇む「桃」は、自ら桃を象った樹脂製だと言う。「桃」の破れた部分が敢て曝されているのは、作り物であることを明示するためだろう。肖像画が現在(生命)を永遠にとの冀求なら、腐らない「桃」は「西王母の桃」を求める人々のアトリビュートである。だが、「西王母の桃」は人造、フェイクであることが破れによって露悪的に示されている。結果、作品は、ヴァニタスに立ち返ることになる。

清水浩三の《チューリップ》(1620mm×1303mm)の画面は、青を背景に2回ヘアピンカーブした暗い黄褐色の塊が覆い、チューリップのイメージが見当たらない。17世紀頃の植物図譜にあった、花が咲きつつ球根や根が露わになったイメージに「生きながら死んでいるという矛盾した状態」を見た作家が、粘土でチューリップを拵え、それを絵画にしたものだという。押しつぶされた粘土のチューリップは、球根に潜む生命のメタファーとも言える。静止状態に生命を見ているのだ。あるいは土(あるいは粘土)から花を咲かせる点に着目すれば、「泥中の蓮」に通じる教訓があろう。美しい「チューリップ」の不在を嘆くとき、鑑賞者の囚われる煩悩が白日の下に晒される。

松浦美桜香の《Doll drawing VII》(650mm×1000mm)は、自ら制作した人形が横倒しになった姿を木炭で表わした作品。倒れた人形が伸ばす歪な手は、右目だけがはっきりと浮かび上がる顔と相俟って、苦悶や死を強く想起させる。苦悶や死によって人形に却って生命が吹き込まれる。静止状態の中に生命を生み出す意図が明確である。

熊倉涼子の《Still Life with Artifacts about the World》(1167mm×910mm)の画面には、紙粘土で作ったような山とそれを覆う針金の枠、その背後に地球の画像に神の存在を頂点とする天地の略画が重なり、世界を動かす天使の姿なども表わされている。地球の画像の科学的イメージに、須弥山的な粘土の山やキリスト教的世界観の天地の略画とが重ね合わされることで、世界観の変遷・更新が提示されている。作品がパラダイムに囚われる人々の似姿であるなら、思考停止に揺さぶりをかけるという点で、やはり静止状態の中に変化(動き)をもたらす作品と言えよう。