可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 水野里奈個展『アトリエの景色』

展覧会『水野里奈展「アトリエの景色」』を鑑賞しての備忘録
新宿髙島屋10階美術画廊にて、2023年3月1日~13日。

筒描き的描線や水墨画のモティーフを盛り込んだ花やクリスタルに溢れる鮮やかな色彩の油彩画10点、それらに登場するモティーフを取り上げたモノクロームのドローイング7点で構成される、水野里奈の絵画展。

《3つの花瓶》(530mm×530mm)は画面中央に3種の青い壺を横に並べ、筒描きを思わせる厚みのある描線によるパルメットなど植物の文様でカラフルな画面を埋め尽くした作品。それぞれの壺の表面に施された花などの装飾は、周囲のすなわち抽象化された植物文様へと接続する。また、壺の配された中央のイメージは額のような正方形の枠により区切られ、画中画のイメージがもたらされている。花瓶を3つ配したのは、三人称によって世界を全て記述できるように、無限のイメージを引き寄せるためであろう。花瓶の「画中画」は壺中の天に等しく、内なる無限をテーマとした作品と言える。

《ステンドガラスのモスク》(1450mm×1120mm)の画面下部には、カウチのある花模様の赤い絨毯が敷かれ、その奥に教会のステンドグラスのような格子の入ったカラフルな窓が覗く。窓は上方に向かってやや窄まり、色鮮やかなとりどりの花の装飾に覆われている。その上方には四方八方に冷ややかな光線を放つ星が燃える様が、万華鏡を覗いたときに広がるイメージのように広がっている。作品を特徴付けるのは、この画面を左右から覆う、例えば曾我蕭白の《風仙図屏風》の風や波のようなモノクロームの流体ないし奇岩である。神仙が束の間見せる桃源郷の幻影であることを示すためであろうか、生命の源であるエネルギーの循環に岩石などの無機物も組み込まれている。

本展のメインヴィジュアルに採用されている《マントルピースのあるアトリエ》(1000mm×800mm)は、暖炉のあるアトリエを描いた作品。マントルピースに筆を挿し、あるいは花を活けた壺が置かれ、その上の窓には窓外の植物と青空を背に山容が覗く。マントルピースの脇にはイーゼルが立てられ、壁には宝石や植物、蝶のコレクションが所狭しと飾られている。手前のテーブルの上には絵具を載せたパレット、筆、クリスタルなどが置かれている。テーブルやパレットは露頭のようであり、ロジェ・カイヨワが見たような石中の模様のようでもある。北上川河畔に「イギリス海岸」と名付けた宮沢賢治に匹敵する想像力によって、石のような無機物からエネルギーを引き出し、あるいは無機物と有機物とを合成する秘術がアトリエで執り行われている。暖炉の中に、寒色で表わされ氷の結晶に見立てられる植物のイメージが描かれているのは、一種の錬金術のために赤々と燃える焔がそのエネルギーを引き出された結果であろう。アトリエの窓から臨む山の姿は、宮沢賢治石綿=蛇紋岩を求めた早池峰を連想させずにはいない。

 内臓のことを総称して私たちは「わた(腸)」と言い表してきましたが、この古い音「わた」とは「ワタ(海)」のことでした。生命が生まれた母胎を「ワタ(ツ)ミ」(=海、海の神」と呼んできた私たちは、自らの胎内にあるこのやわらかな母胎のうねりをはっきりと感じていたのです。内臓には、人類のそしておそらくはすべての生類のやわらかな生命記憶が宿っているのです。そのゆえにこそ、繊維状のやわらかいかたまりを指す「ワタ(綿)」ということばも生まれてきたのでしょう。そうであればまた、北上山地にも多く産する、蛇紋岩や角閃岩が薄い繊維状に変形した鉱物である「石綿」とは、その名前からして、「石-綿」すなわち石と内臓とをまっすぐに結びつける特権的な鉱物というべきかもしれません。しばしば蛇紋岩を求めて北上の霊峰である早池峰に登った賢治の詩「早池峰山巓」の冒頭にはこうあります。

あやしい鉄の隈取り
数の苔から彩られ
また捕虜岩の浮彫と
石絨の神経を懸ける
この山巓の岩組を
雲がきれぎれ叫んで飛べば(……)
(「早池峰山巓」『全集1』三九四頁。)

賢治自身が「シャーマン山」(詩「測候所」)などとも呼んで愛し、畏怖していた霊峰早池峰山。その「山巓」すなわち頂上で、彼は火成岩の破片である「ゼノリス(捕虜岩」(または同源捕虜岩)と「石絨」の岩脈が、まるで体内の神経系のように絡まって浮かび上がる特異な文様を、岩組の表面に見ていたのです。まさに賢治による「石と内臓」の同時発見の瞬間です。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.149-150)

マントルピースのあるアトリエ》画架に画布が架かっていないのは、作品それ自体が実は画面から飛び出したものであることを暗示する。他方、パルメットに見られる筒描き的描線は、石から生命を引き出す魔術をなぞるとともに、その生命を画面内部に定着させるものである。画面の中から引き出したエネルギーを森羅万象へ、あるいは再び画面の中へ。1点の絵画は、画面の内へ外へ限りなく続いていくことができる。無限の可能性を創造するという点で、個々の絵画作品とアトリエとは、作者にとって同じものなのだろう。アトリエは景色=絵画であり、絵画とはアトリエである。