可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 千葉正也個展

展覧会『千葉正也個展』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2021年1月16日~3月21日。

紙粘土や木片を用いたマケットと日用品などから作成されたジオラマを描写した絵画など100点を超える作品を、亀の長大な飼育施設とともに設置した、千葉正也の個展。

会場は、ギャラリー1とギャラリー2の2つの長方形の面を持つ展示スペースがL字型に接続していて、ロビーの受付近くにある入り口からギャラリー1を抜けてギャラリー2に入り、その奥の出口からサンクンガーデンに面するコリドールをギャラリー2の外壁に添って折り返すようにロビーに戻る導線となっている。その会場に、亀のために設えられた飼育施設がある。それは、ベニヤ板で仕切られ、木材のチップのようなものが敷き詰められている。給餌場や水飲み場を備えた数カ所の「広場」を「プロムナード」が繫ぐことで、亀が会場を周回できる仕掛けだ。この亀の周回型飼育施設は床から数十センチ持ち上げられているが、ギャラリー1の奥では低められて鑑賞者がその上を横切れるようになっており、また、ギャラリー2の途中では鑑賞者の通路の上に亀のプロムナードが架かる恰好になっている。絵画は、「プロムナード」や「広場」沿いに、亀のための屋外広告看板のように設置されている。実際、《タートルズ・ライフ#2ライオンの様に勇猛で逞しく》[13]では、 亀の飼育ケースの中にライオンの木彫が飾られる他、周囲にはライオンのモティーフのグッズが置かれた状況が描かれている(但し、飼育ケース内の鏡の縁には"You are not a Lion"と記されている)ことからも、亀に向けた展示が意図されていることは疑いない。そして、亀を見ていると思う鑑賞者は、実は亀に見られていることが、コリドール脇のバックヤードに設置されたインスタレーションで知らされることになる。亀の飼われているガラスケースの前には、監視カメラが撮影した会場の様子がリアルタイムで流されているのだ。作者は自ら作成した世界(=ジオラマ)を絵画に封じ込めるように、鑑賞者をも絵画の中に入れ込もうと目論んでいるのだ。さらに、見ることは見られることであるということを、展示の最終盤に展示されたドローイング《無限のファクター(猫と見つめあった時)》[D-8]によって再確認させられることになるだろう。亀は私だ。

《花#2》[75]は、天板が2つある作業用踏台のような木製の下の台の上に花を挿した花瓶が置かれ、上の台の上に設置された作品。同じ台と花瓶とを描いているが、絵の中では絵画ではなく複数穴の穿たれた箱から木材が飛び出し、それぞれの先にプラスティックの板が取り付けられているオブジェが描かれている。絵画が現実を写し取る鏡ではなく、拡張現実(Augmented Reality)として機能させられているかのようだ。

「温かいギャラリースタッフ」シリーズは、電気毛布に描かれた美術館のスタッフ(監視員?+警備員)の肖像画[61-65]。いずれも三本指を立てているのは、映画『ハンガー・ゲーム(The Hunger Games)』(2012)(あるいは、それを踏まえ、タイやミャンマー)で独裁(あるいは軍部のクーデター)に抵抗するシンボルであろうか。すると、床に置かれたホットカーペットに描かれているために倒されたように見えるキュレーターの肖像画《温かいキュレーター》[66]は、倒された権力ということになる。絵画や美術の制度に対する権威を揶揄することで、作品の価値や展示の在り方の再考を促すようだ。ベニヤ板から切り出されたハートが木材で組み立てられた台座から飛び出すオブジェ《ハート》[52]や、《このにおいも作品に含まれます》[51]などは、亀と相俟って、展覧会のライヴとしての性質を引き出すための仕掛けとなることが企図されているのであろう。だが何より、落語をフィーチャーした映像作品「さげ」のシリーズ[87-89]が繰り返されることによって、さげ(結末)が分かっている古典落語シェイクスピア演劇のように、何を語るか(何を見せるか)ではなく、どのように語るか(どのように見せるか)に対する問題意識を鮮明にしているようだ。

《ヘビ型本棚、宇宙英雄ペリーローダンシリーズ、1巻から627巻まで》[48]は、壁に蛇の形を模した本棚と、床にSFのシリーズ作品の文庫本が置かれている(なお、傍には、《Sweating Head(宇宙英雄ペリーローダンより)》[49]と題された頭部像型の噴水も)。亀の周回型飼育施設の存在からすればヘビ型本棚はウロボロスであることを想像するが、異なる。ペリーローダンシリーズが継続しているため、本棚を拡張(延長)する必要があるためであろう。棚は白く塗られている(長い白蛇をモティーフとした《ヘビくん》[11]も近くに展示されている)ため、会場の上のフロアで展示されている小瀬真由子の絵画に繰り返し表される白蛇へと連なるモティーフとなっている。

《ウーロン茶を飲む男》[33]は郊外の住宅街の通りに置かれた「ウーロン茶を飲む男」の立体作品を高い位置からデジタルカメラで撮影している状況を絵画に表した作品。デジタルカメラの脇にはグラスに入ったウーロン茶が置かれ、「ウーロン茶を飲む男」を撮影している「ウーロン茶を飲む男」という入れ籠の状況が示されている(入れ籠というテーマは、化粧する女性と彼女を背後から見つめる男性とを描いた絵画を鏡に面するように設置した《私たちの神たちの神たちはあなたたち》[42]においても提示されている)。自らを俯瞰するような視線は、ドローイング《無限のファクター(バーベキュー)》[D-12]でも示されている。

大自然#3》[17]はバナナの房を切断してペットボトルとともに台上に設置した様子を描いたもの。ライオンの写真やイラストを貼り付けることで、バナナの断片がサバンナに見えてくる(なお、切断したバナナを組み合わせ、水に飛び込む女性をその皮に表した《ジャンプ#1》[20]という作品もある)。《若夫婦と黄色い家》においても、マケットはほとんど用いられず、ペットボトルやペンキの缶、植物を植えた鉢やゴム手袋などの日用品を用いて、ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)の肖像画ように、若夫婦を表している。美術における見立ての魅力を示す。

《泣き頭吐き頭》[28]は、石や木材、下着やハイヒールなどを組み合わせて作られた、目から黄色い絵具を垂らす寝そべるような女性(女性の乳房(木製)はギャラリー2の最後に展示されている)と、口からスパゲッティを吐き出す男性の頭部(紙粘土製?)とを描いた作品。両者ともに頭に漏斗が刺さっている。頭部からカレーと味噌汁を注がれて吐き出す《吐き頭》[12]とともに、大量の情報を受けるだけ受けながら咀嚼・吸収することの叶わない状況を揶揄するものか。

《水浴/覗き》[40]は、緑の板に白い絵具で木を描いた板を背景に、水槽が置かれ、その中には裸体女性像が置かれている。水槽の右手には覗き穴の開けられた板が置かれ、その隣に人物の頭像が置かれている。「スザンナと長老たち」のように覗き見る人物の存在に拘わらず、水浴を画題とする作品とは、窃視の願望を叶えるものだ。

《原始時代の終焉》[41]は、横に長い画面。画面左手には、焚火を囲む二人の人物を表した積み石が描かれ、画面中央には左手に向かって飛ぶ石が描かれ、画面右手には投石器が描かれている。火を扱う状況を打ち破ることが何故原始時代の終焉をもたらすのだろうか。