可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 YU SORA個展『もずく、たまご』

展覧会『第16回shiseido art egg YU SORA展「もずく、たまご」』
資生堂ギャラリーにて、2023年3月7日~4月9日。

室内のありふれた品々を、白い布に黒糸や白糸の刺繍で表した平面的な作品や、実寸の白い立体作品に置き換えたインスタレーションなどで構成される、YU SORAの個展。

展覧会の題に掲げられた「もずく、たまご」とは、コンヴィニエンスストアのレシートを白い布に黒糸で文字やバーコードを刺繍して再現した《記録された日々:もずく、たまご》の品目に基づいている。

白い布に黒い糸でテレビやエアコンのリモコンを刺繍した《本木の家》(1130mm×1130mm)、同じく棚の上に置かれた眼鏡を鍵を刺繍した《玄関の棚の上》(1130mm×1130mm)などは、綿を詰めることで、黒糸によって画面が凹まされ、輪郭が触知できるモノとして浮かび上がらされている。腕時計を表わした《あの時の》(17000mm×2600mm)、椅子の上に小さく畳まれた衣類を表わした《お掃除》(17000mm×2600mm)、腕時計、ヘッドフォン、ゲーム機、洗濯ばさみを表わした《机の上》(17000mm×2600mm)では、白い布に白い糸で刺繍しているために、白地に白の線であるとともに、凹部ないし陰として認識され、輪郭が本来存在しないことを黒糸による刺繍作品より際立たせている。画面(布)に溶けるような線は、形を認識するために便宜的に浮上するものであり、意識に登らせる必要がなければ浮上しない。それは日常を取り囲んでいる品々に対する人々の態度をなぞるものだ。

テーブルの上の牛乳パックやカップや皿、椅子などを実寸の白いオブジェとした《リビングダイニング》や、テーブルやベッドなど室内の様々なものを原寸大の白いオブジェで構成したインスタレーション《何もなかった1日》では、輪郭や文字が黒い糸によって引き立てられている。ありふれた品々に目を向けさせるべく、鑑賞者にものの形をなぞるよう誘う。そして、作家が何より表わしたいのは、テーブルや部屋など、ある場において、様々なものが偶然に出会っている事態ではないか。すなわち「いま・ここ」での「邂逅」である。

 この論考〔引用者註:九鬼周造『偶然性の問題』〕の核をなすのは、九鬼による偶然性の区分にある。九鬼は、必然性に対置される偶然性を、様相の議論におけるきわめて重要なものとしてとらえていく。その際に九鬼は、ベルクソンが過去を、ハイデガーが未来を重要な契機として考えたのに対し、「現在」こそを、そこで何かの「出来事」が発生する重要な場面であるとみなしていく。そこで九鬼が論じる「現在」が、たんなる物理的な点としての現在でも、あるいは所謂「生ける現在」としての意識性でもなく、物理的な現在も生ける現在もそれによって可能になる出来事性であることが重要であるとおもわれる。
 いいかえれは、九鬼にとって重要であったのは、時間が流れていくなかで、一種の切断としてみいだされるような「この現在」、すなわち「いま・ここ」なのである。それはハイデガーのように、先駆的な未来によって本来化され、それ出身は頽落としてしかとらえられないものではない。またべルクソンのように、実在するのは流れの連続性を保証する過去であり、現在はその一極限にすぎないというのでもない。流れの一瞬でありながらそれ自身が実在する現在、無と有とが接するその一点のことなのである。九鬼はつぎのようにのべている。

可能性の時間性が未来であり、必然性の時間性が過去であるに反して、偶然性の時間性は「いま」を図式とする現在である。

そして九鬼がこうした現在の情動を「驚き」という言葉で示していることも重要な問題をはらむだろう。それはハイデガー的な不安や、ベルクソン的なノスタルジーではない、現在の出来事において発せられる情動であるからだ。
 九鬼が「現在」をこうした「出来事性」「ハプニング性」においてとらえることは、彼が以下の記述において、「例外性と個体性」「邂逅」「運命=原始偶然」を、「現在」のあり方こそにおりこんでいることからも明らかであるといえる。九鬼自身は、「現在」そのものの垂直的な深みのなかに、ドゥルーズが読みこんでいく「永劫回帰」の時間を落としこんでいるようにおもえる。
 さて、ともあれ九鬼の偶然にかんする分類をみていこう。
 九鬼は偶然性を単純に三つの位相に区分していく。その第一のものは「定言的偶然」、第二のものは「仮説的偶然」、第三のものは「離接的偶然」と名指される。論理的な事態である第一の偶然を、出来事性の強い第二の偶然が支え、その根底に形而上学的な原始偶然の位相である第三の偶然が無底のように控えていると読むことも可能である。
 第一の偶然は、例外性をあつかうものである。第一の偶然では、法則に対する逸脱が、偶然的なものの現れと規定される。
 ここでの九鬼があげている例は、四つ葉のクローバや、寒い夏といったものである。クローバは普通三つ葉だが、たまに四つの葉があり、それは日本でも幸福の象徴として語られる。また寒い夏は、夏というのは暑い季節であるという法則的規定に対する逸脱である。この両者からは、いずれにせよ違和感のような情動が喚起されざるをえない。こうした例外性を九鬼は「偶然」と名指すのである。
 しかしここで注意すべきことがある。こうした例外的な偶然性に対し、九鬼は「個物」というあり方を指定する。個物は主体ではない。個物はそのときどきにおいて、その特異性と、ほかの個物との差異によってきわだつものである。ここで九鬼は、『差異と反復』第一章で提示される、アリストテレス的な類種関係によって描かれるヒエラルキー的構造を、つまりそこで種差によって規定される個体のあり方をきっばりと拒否する。個物とは一回きりのものであり、それ自身において特異である。そのあり方を九鬼は、偶然的例外といういい方で提示するのである。
 ついで第二の偶然は、第一の偶然を補完するものとして示される。前記の例を再びとりあげてみよう。クローバの葉が四つであるのは、確かに例外的かもしれない。しかしそのことには、ある理由があるはずである。たとえば、胚芽のときに何かの傷ができたからかもしれない。土壌の影響かもしれない。また夏が寒いときにも、それ自身は高気圧の配置とか、世界的な気象状況において、おおよそのことが説明できるのではないか。するとそこには、例外であることを説明する理由がみいだされるはずである。
 だがここにも問題はある。碓かに例外を発生さぜる理由はみいだしうるかもしれない。だがそれが「いま・ここ」という現在において提示されることが、「驚き」を喚起することの理由なのではないか。それには「邂逅」という問題が関連しているはずである。
 九鬼は以下のような例を提示する。それは、瓦が落ちて、道を移動している風船に当たるという事例である。そこで風船が割れるとひとは驚く。どうしてだろうか。もちろん瓦が落ちてたまたま移動している風船に当たることが、とても偶然的なものにみえるからだろう。しかし瓦が落ちたのは、それを支える木の老巧化や、あるいは台風や地震の影響によって、もはやそれが維持できなくなったからであり、まったく物理的に説明可能である。風船の運動についても同様である。この二つの動きについては、不合理的なものは何もない。しかしその二つの系列が、ある特定の「いま・ここ」で邂逅するとみなが驚く。それはこの二つの系列が「独立」したものであり、それが「いま・ここ」という場所で「出逢う」その事実に驚くということではないか。
 すでに明らかであるが、こうした意味では、個物であるもの、出来事であるものは、すべてがさまざまな系列の「いま・ここ」での「邂逅」ににほかならない。このことについて九鬼は、第二の偶然をとりあげる。
 (略)
 そして第三の偶然である。第三の偶然にかんしては、第二の偶然の独立した系列をさらに俯瞰する(まさにドゥルーズ的な「俯瞰」に近い)形而上学的な視線が導入される。有限者である人間にとって、こうした系列の邂逅は偶然にしかみえないかもしれない。しかし世界のすべての出来事をみわたせる存在者を仮定すれば、そこでは独立の系列が邂逅することは、はるか昔に決定されていたともいえる。九鬼はこれを「運命」とのべる。
 九鬼はこのように展開する。「私は人間である」ことが規定されているとしても「どうして私はエジプト人でも中国人でもないのか」、そしてどうして私は――ここで論じているこの私であれば一九六四年生まれであるが――別に時代に生まれていなかったのか。さらにつぎのようにも問いを加える。「私は生物である」としても、私は鳥であっても虫であってもよかったではないか。何故わたしは人間なのか。
 それぞれの離接肢は、現実化されるときはひとつの概念において規定されるものかもしれない。だが個体があるとは、こうした離接肢のさまざまな事態が個体のなかに存在し、それが自己限定されることではないか。
 まさに仏教的な輪廻転生をおもわせる議論になっていくが、ここで九鬼がとらえているものは、原始偶然によって規定される「運命」という主題に収斂する。すなわち、原初の一突きのようなものがあり、この世界の差異化/分化の運動が開始されたのであれば、そうした根源的な賭の領域、まさに「賽の一振り」として示される場面には、われわれが介在することができない。しかし、一切受動的であらざるをえないこの領域が存在するからこそ、私が「いま・ここ」においてあることが可能になり、それが偶然的でありながら「このもの」(エッケイタス)として「ある」ということを可能にしている、そうしたものではないだろうか。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.290-294)

オブジェ《ふたり》は、洗面台を共有する2人の存在を2つの歯ブラシで表わす。それは「二つの系列が、ある特定の『いま・ここ』で邂逅する」「仮説的偶然」同様、驚くべき事態である。だが、「世界のすべての出来事をみわたせる存在者を仮定す」るとき、それは恰も《刺繍枠》が予め2つ組み合わされて使われるように「運命」であった。レシートの上のもずくとたまごの出会いとは、「離接的偶然」を指していたのだ。