展覧会『武田鉄平 近作展』を鑑賞しての備忘録
MAHO KUBOTA GALLERYにて、2022年8月27日~10月1日。※当初会期9月24日までを延長。
自ら制作した肖像画を描いた「絵画のための絵画」シリーズ10点で構成される、武田鉄平の個展。
《絵画のための絵画 040》(910mm×730mm)には、恰も証明写真のような筆跡の残らないよう塗った灰色を背景に、赤い服を身に付けた人物の肖像が表わされている。頭頂部のなで付けた艶やかな黒い髪と、絵具をチューブから塗り付けたような線が襟を形作る、真っ赤なジャケットと。それらに挟まれる顔の部分は、赤と白の絵の具を中心に絵具が厚く盛られ、筆の刷毛の線が細かく入った部分と、飴細工のようなマーブルの部分とでグチャグチャである。位置関係から額、目、鼻、頬、口などを辛うじて想像できる程度にしか容貌を表現していない。塗りたくられた部分を眼輪筋、皺眉筋、口輪筋などの筋肉に比定することもできなくはないが、顔の筋肉に忠実な再現でもない。これだけでも特異な作品と言えるが、実は、この作品は模写と言い得る作品である。絵具の盛り上がり、刷毛目、絵具の混じり合いや光沢は、原画のイメージを伝えるものではあるが、実際の画面に絵具の盛り上がりなどはあまりなく、平滑に近い。ある種の騙し絵(トロンプ・ルイユ)とも言えよう。
(略)芸術等の創作活動の一部として行われる「コピー/複製」である。その目的は作品の創作である。制作者はオリジナルである対象からインスピレーションを得たり、それをイマジネーションの源として利用する。こうした「コピー/複製」は、自然模倣から派生した古典的な芸術の本質規定に則った作品制作、本歌取りのうような知識、教養の発露としての引用、あるいはパロディ、パラフレーズといったモダニスト的「知」の現れとしての引用に至る芸術創作の一技法である。またこれにはモダニスト的な「知」とは関係なく、現代芸術作品にみたれるような世間に氾濫する、ときには商業的な現代の共通のイメージを利用するシミュレーション・アート、ポップ・アートと呼ばれる、ほとんどオリジナルの剽窃からなるような現代のあらゆる創作活動をも含む。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.23〔近藤由紀執筆〕)
「絵画のための絵画」シリーズは、「作品の創作」のため「自然模倣から派生した古典的な芸術の本質規定に則った作品制作」として、自ら制作した原画を対象として描いていると言える。
またオリジナルと複製された対象との「類似性」のありようによって定義される場合もある。この場合、同一の作者によって複製化された作品でも、オリジナルと複製品の類似のレベルによって、レプリカ、ヴァリアント、ヴァージョンなどと区別される。たとえば前出のレプリカは現在一般的にはオリジナルの表現方法および内容を再現するために制作された対象に用いられることが多いが、この分類に従うとレプリカとは同一の作者あるいは同一工房によって再生産された作品を意味する。その類似のレベルはオリジナルに忠実に再制作された対象に対して用いられる。そして順にヴァリアント、ヴァージョンとオリジナルとの類似のレベルが低くなっていく。また原作者あるいは同一工房以外による複製化では何をコピーするか、またどのようにコピーするかによってマルティプル、パスティッシュ、パロディ、パラフレーズ、アプロプリエーションと区別される。マルティプルとは立体的な芸術作品で量産された作品を意味する。したがってオリジナルという関係は存在せず、換言すればすべてがオリジナルである。現代芸術におけるマルティプルは鋳造彫刻のようにエディションなどで数量を制限しないこと、さまざまな工業的過程によって生産されることが意図されており、原作者はその青写真のみを提示する場合もある。
同じようにパロディとパスティッシュは現在では共に似たような引用の一形式として認知されがちであるが、オリジナルをどのようにコピーするかによって適用される用語が異なってくる。パロディが「批判的距離をもった模倣」であり、形式的に他者の模倣であるばかりではなく、明白に内容の問題と関わっており、「皮肉な『文脈横断』(trans-contextualing)と転倒をもった反復」と定義されており、パロティされた作品とオリジナルのテクストとの関係は変形的であり、対象とされたテクストと作品の間にはアイロニーを含んだ距離があることが特徴として挙げられている。
一方、パスティッシュは、パロディとテクストの関係が差異の強調であるのに対し、パスティッシュされた作品とテクストの関係は模倣的であり、対象としたテクストとの差異よりも同一性が強調される。パスティッシュの場合はパロティと異なり、模倣に嘲笑的な意図が含まれない。したがって、プルーストによるとパスティッシュは「賞賛的批判」と呼ばれる。また、アプロプリエーションのように他の作者の作品をそのままコピーし、自らの作品として提示する剽窃行為も現在ではその意図が明確にされている限り、芸術制作の一技法として認識されている。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.26-27〔近藤由紀執筆〕)
「絵画のための絵画」シリーズは、「同一の作者によって複製化された作品」と言うことができ、一種のレプリカである。確かにイメージの類似性だけを考慮すれば、限りなくレプリカに近い作品と言える。もっとも、作家は、原画にあった絵具の立体的な量塊を、量感として平面に落とし込んでいる。絵画が単なるイメージではなく物としての存在であることを、平面性を強調した作品によって訴えているのだ。その点では「批判的距離をもった模倣」であり、同一作者による模倣でありながらもパロティ的である。
こうした現代における「コピー/複製」の多様化には高度に概念的になった現代芸術の問題が含まれている。それはマルセル・デュシャンが「画家の用いる絵具も既製品であり、したがって芸術とはすべて既製品である」と述べたように、絵具のみならず、芸術家の感覚や思想さえも決して既成のものから自由ではあり得ず、芸術家のオリジナリティなどもはや存在し得ないという芸術概念への問いかけ、あるいは「芸術家の独創性」といった一種の神話に対する不信に由来する。こうした芸術作品における「コピー/複製」あるいは引用の多様化の動きは、ロマン主義以降、われわれの中に深く浸透しているオリジナル神話を崩壊させようとする動きと呼応している。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.27〔近藤由紀執筆〕)
マルセル・デュシャンが言うように「画家の用いる絵具も既製品であり、したがって芸術とはすべて既製品である」なら、既にある物を寄せ集めて作られた新しい物である芸術とは、一種のブリコラージュと言えよう。手持ちの自作を用いて新たな自作を生み出している「絵画のための絵画」シリーズの場合、レプリカを本来の複製という用途とは異なる用途のために利用したと評し得る。その異なる用途とは、絵画の役割を提示して見せることだ。
ここで、プラトンがヒントを――正しい答えではなくヒントを――与えてくれる。プラトンは、自然の模倣としての芸術作品を賞賛するのではなく、逆に、これを無意味で無用なものとして斥けているからである。プラトンにとっては、芸術はまがいものである。というのも、芸術作品は、二重のコピー(模倣)、模倣の模倣だからだ。どうして、模倣が「二重」になるのか。プラトンの観点からは、通常の事物がすでに模倣だからである。「何の」模倣なのか。「イデア」の、である。真に実在するのは、――プラトンによれば――イデアのみだ。われわれがこの世界の中で見たり、触れたりしている事物は、つまりわれわれに対して経験の対象として現れている事物は、イデアの写しに過ぎない。とはいえ、われわれに直接現れるのは、この第一段階の写しだけなのだから、これについてはその存在を容認しないわけにはいかない。芸術作品は、つまり絵画や彫刻は、この(イデアの)写しのさらなる写しということになる。したがって、存在論的には、3つのレヴェルが想定されている。まず、イデアがあり、それの物質による模倣があり、そしてその模倣の模倣としての芸術がある。だが、この第3のレヴェル、つまり、すでにまがいものであるもの(第2のレヴェル)のさらにまがいものなど、なくてもよい、いやない方がよい。これが、プラトンの考えである。第2のレヴェルにおいて、人は、すでに真の実在ではないものを実在と取り違えているのだが、それは必要悪として許容できても、第3のレヴェルの芸術は、もはや必要ですらない、端的に悪である。
このプラトンの見方が、われわれに霊感を与える。確かに、プラトンの通りに考えた場合には、写実を目指す絵などまったく無意味なものであって、そんなものをわざわざ描こうとする情熱は、ますます不可解だし、そもそも愚かしいものだ、ということになる。が、プラトンとは逆に考えたらどうだろうか。芸術作品のライバル、芸術作品がそれに近づこうとしているものが、自然の事物、知覚者に現れたままの事物だと考えれば、プラトンの言う通りだが、芸術作品が対抗しているライバルは、自然の事物ではないとしたらどうか。
ライバルは何か。イデアである。自然の模倣のように写実的に描いているとき、画家は、プラトンが「イデア」と呼んだものを見ており、それを目指していたのだ。われわれが何ものかを美しいと感じるとうことは、それの「イデア」を見ていた、ということではないか。このように考えれば、写実的な絵画への情熱も説明可能なものになる。単に、自然を模倣しているわけではない。自然を超える過剰分があり、その過剰分こそが、描くことへの衝動、そして鑑賞して享受することへの愛着を説明するのだ。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.202-203)
「絵画のための絵画」シリーズの原画のモデルをイデアと看做せば、原画はイデアの模倣となる。そして、原画を写した作品は、イデアの模倣の模倣となる。もっとも、平滑に表わされた作品は、原画の物質性を排除してイメージのみを捉えていた。それは、原画(イデアの模倣)を表現するのではなくモデル(イデア)のイメージを抽出しようとしているのである。「絵画のための絵画」シリーズは、絵画がイデアを表現するものであるという役割を提示するための絵画なのだ。