可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 江口暢彌個展『ニアリーイコール? ノットイコール?』

展覧会『江口暢彌「ニアリーイコール? ノットイコール?」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2021年5月15日~29日。

15㎝×15㎝の画面の一部を折り曲げた形を、木材を削って作り、それを加工して得られた支持体に描画した作品を中心とした、江口暢彌の個展。

「15㎝×15㎝」の作品は、正方形の1つか2つの角を折り曲げた形をしており、その折り曲げ方も様々。国立代々木競技場の吊り屋根構造や、一の谷形兜の頭立を連想させる、三次元の曲線が魅力的である。そして、その造形が生み出す影がまたそれぞれの作品の個性を引き立てている。正面は、画面のほとんどを占める中心となる色によって塗り込められているものが多いが、マスキングにより塗り残された下地の色が見えるもの、切箔の料紙のようなもの、文字のような記号が入れられたもの、角のつくる影を暗い絵具で施してあるものなど、何かしら変化が付けられている。折り曲げられた「裏」に当たる部分には着彩せず、支持体の地が剥き出しになっている。中心となる縦6個×横8個の展示では、作品の間に作品1個分の空白が設けられているため、縦11×横15、否、外周を考慮して縦13×横17のグリッドに48個の作品が並べられている。

 (略)空間的な意味においては、グリッドは芸術領域の自律性を示す。平面化され、幾何学化され、秩序づけられたグリッドは、反自然的、反模倣的、反現実的である。それは、芸術が自然に背を向けたときの相貌である。その座標から帰結する平面性において、グリッドは、現実的なものの複数の次元を締め出し、それらを単一表面の横の広がりに置き換える手段である。その組織の隅々にわたる規則性において、グリッドは、模倣のではなく、美的命令の帰結である。その秩序が純粋な関係のそれであるかぎりにおいて、グリッドは、自然的諸対象かがみずからに固有の秩序を持とうとする要求を無効にする一つの方法である。すなわち、美的な場における諸関係は、ある別世界に存在すること、そして自然的諸対象に関して、これらに先行し、かつ最終的なものであるということが、グリッドによって示される。グリッドは、芸術の空間が自律的であると同時に自己目的的なものであることを宣言する。(ロザリンド・E・クラウス〔谷川渥・小西信之〕『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』月曜社/2021年/p.23)

一部の作品は、折曲げの形が一致しているため、着彩されていない「裏」同士を接着して展示されている。その際、一方の作品は、グリッドからはみ出す位置に設置されることになるため、規則性を揺るがせるハプニングが生み出され、それが味わいを添えることになる。

 人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで、それをふたたび橋で結ぼうとする。(ゲオルク・ジンメル「橋と扉」『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〕p.100〔鈴木直訳〕)

作家は、「間(あいだ)」に関心を持っているという。その背後には、絵画と彫刻とは截然と区別できるかという問題意識があり、絵画でも彫刻でもない「『橋』のようなもの」をテーマに制作している。

 橋がひとつの審美的な価値を帯びるのは、分離したものをたんに現実の実用目的のために結合するだけではなく、そうした結合を直接視覚化しているからだ。現実の世界では身体を支えるために提供している足がかりを、橋は目にたいしても風景の両側を結ぶために提供している。(ゲオルク・ジンメル「橋と扉」『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〕p.93〔鈴木直訳〕)

作家は、平面(=絵画)の一部を折り曲げる操作によって、立体作品へと転じさせている。「15㎝×15㎝」の作品は平面と立体との「結合を直接視覚化している」。そして立体化により生まれた三次元のカーヴを、丹下健三が国立代々木競技場で採用した吊り屋根構造に擬えれば、作家は吊り橋の構造を作品に組み込んだのと同じ結果を得ていると解し得よう。その場合、吊り橋構造と作品とは、外形的には「ニアリーイコール」の関係に立つ。もっとも、実際には吊り橋の「運動力学」も「空間的=直接的な可視性」も存在しないのであるから、吊り橋構造と作品とは、「ノットイコール」である。

 橋の「目的」は、たんなる運動力学のそのときどきの現実のなかに汲みつくされている。しかし、そのたんなる力学にすぎないものが視覚的=恒常的ななにものかになったのだ。それはちょうど肖像画が、人間の現実を作り上げていく身体的=心的な生のプロセスをいわば停止させ、時間のなかに流れ去るこの現実の移ろいやすさを、現実がけっして提示しない、また提示できない唯一無二の無時間的な安定した具象性のなかへ凝集するのと似ている。(ゲオルク・ジンメル「橋と扉」『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〕p.93〔鈴木直訳〕)

「15㎝×15㎝」の作品は、上下左右の区別がない。すなわち、位置の変更が可能であり、「唯一無二の無時間的な安定した具象性のなかへ凝集する」ことはない。なおかつ、円形画面と異なって、どのように展示するかで意味を異にする。マンホールの蓋が正方形であったら落下の危険があるように、円と違い、正方形は移動によって意味を違えるのだ。

本展のもう一つの柱は、「15㎝×15㎝」の作品などの展示風景を忠実に描いた絵画を、実物と併置する試みである。模写作品に表された「15㎝×15㎝」は、実際の作品に比べて一見して粗い画面であることが分かる。ところが、両者をスマートフォンで撮影した場合、ディスプレイ上で確認しても、「作品」と「絵画」との間に大差がないのだ。「ノットイコール」が「ニアリーイコール」へと変じていると言っても良い。ますますネット上でディスプレイ越しに得る情報の割合が極めて高くなっている現実に対し、再考を促すものだ。